ルーシー詩篇      ワーズワース

    ルーシー⑴

身に覚えがある 奇怪な発作
かつて私を襲った事件
愛する人の耳にだけ
敢えて告白しよう

私の愛する乙女が 日々艶やかに
六月の薔薇さながらに 匂い立った頃
夕べの月の光を浴びつつ
彼女の小屋へと寄り道をした

見渡す限りの草原の上
月に 私の眼は釘付けになった
愛しい私の小道の上を
いつしか 馬は足早になって近づく

ついに果樹園に着く
丘を登っていく
沈みゆく月が ルーシーのあばら家へと
近づき なおも近づく

いつの間にか 私を眠りに捕えた甘い夢は
優しい自然の 情け深い恩恵だった
その間じゅう 私の両の目はずっと
落ちてゆく月を じっと見つめていた

蹄の音も高らかに
馬は動きを止めず
すると 小屋の屋根の向こうへと
すぐに 輝く月は消えていった

何と 定めなく 気まぐれな思いが
愛する男の胸へと 滑り込んだことか
「ああ お慈悲を!」と私は知らず叫んだのだ
「ルーシーよ 万一にも死なないでくれ」と

    ルーシー⑵

彼女は暮らす 人も通わぬ小道のそばに
ドウブの泉の脇の小屋
ほめたたえる者はなく
愛する者とて

苔むす岩の 隅にひっそり
隠れては咲く スミレの花よ
その健気さは 空に輝く
一番星かと

ひっそりと生き 知る者もなく
ひっそりと逝く
いまや彼女は 奥つ城に ああ
いまは彼女は 何処にも

    ルーシー⑶

私の旅路に 知る顔もなく
海の彼方の 諸々の土地
英国よ! それまで私は知らなんだ
かくも愛しき祖国だったと

もう過ぎ去った 憂鬱な夢
もう去りはせぬ お前の岸辺
二度と離れぬ いまも思うが
いっそうお前が 愛しいのだよ

山から山へ お前を巡れば
望み満たされ 喜びは湧く
お前の囲炉裏 火に暖まり
糸を紡ぐは 私の愛する乙女であるよ

英国よ 朝な夕なに見え隠れする
ルーシーの 遊んだ木蔭
英国よ あの早緑の草原もまた
ルーシーの 見納めたもの

    ルーシー⑷

三年 彼女は日と雨を浴び
すると自然はこう言った「愛しい花よ
地上に撒いた種から伸びた 最善の花
このいとし子を わたしはもらう
わたしのものだ 我が相応しき
淑女としよう

「わたしは 我がいとし子の
規範とも衝動ともなろう わたしと共に
少女は 岩場にいても草地にいても
湿地であれ木蔭であれ 天地のどこにいようとも
自分の思いを 燃え立たせるにせよ 鎮めるにせよ
見守る力を感じるだろう

「小鹿のように 喜びに
狂おしく 野原を走り回り
山中の泉へと 駆け上がり
漂う芳香を 身に帯びるだろう 少女は
黙す無情の物さながらに
静かに落ち着くだろう 少女よ

「流れる雲にも似る少女
柳さえ その身を屈め
嵐どよめく 最中であろうと
人知れぬ 共感により
乙女子を成す 優美な資質を
少女はその身に 着けぬはずもなく

「真夜中の星々に 少女は親しみ
思い思いに 踊るが如き細流沿いに
秘められた 幾多の場所に
少女は耳を傾ける
水のささやき 美を生じ少女の顔に 浸み込んでいく

「生き生きとした 歓喜の情は
乙女の胸を 高鳴らせ
少女の姿を 気高くしよう
この草深く 幸多き谷間にて
少女とわたしが 共に暮らす世
わたしの思いを 捧げよう」

自然はかく語りき——その業は成就せり——
ルーシーの世はうたかたの如し
いまやおらず わたしはひとり
この荒れ地 冷淡にして物音一つせぬ土地は
それまで生きてきた者の
そしてもう 二度と見られぬ者の 思い出

    ルーシー⑸

眠りが封した私の心
私は怖れの心を失くした
彼女は非情の物に見え
寄る年波の感触も知らぬ

いまや彼女は動きも力も見せず
聞くことも見ることもない
今日も一日大地は回り
彼女も回る 岩石と樹々と共

ワーズワースの「ルーシー詩篇」と呼ばれる幾つかの詩を訳してみた。
ワーズワースは、人々が毎日使うような言葉を用いて、思いもよらぬ美しさを醸し出そうとした詩人である。これに倣って、私もできるだけわかりやすい言葉を用いて訳してみた次第である(奏功したかどうかは定かでないが)。それにしても、言葉は易しくとも内容は時に難しいし、時に余りに意表を突く。

⑴は、恋する乙女の元へ通う男を詠むが、第五連では男は半ば夢遊病者となりながらも、目だけはしっかりと月を見つめている。何とも不可思議な情景である。そして最終連で突如男は乙女が死んだらどうしようと思うのだが、その連想の急に驚く。
⑵は、どこかしらわびさびの美意識と通じる。人里離れた暮らしはわびであり、貧しい家はさびであるのだが、するとこの作品では、乙女が人里離れてひとり粗末な家に暮らしており、それがいつの間にか亡くなっているのだから、ここにはわびがあり、さびがあり、無常がある。いかにも日本人好みの美意識である。枕草子には「女の一人住む所は」から始まる文がある。女が荒れた貧しい家に一人暮らしているのは何とも奥ゆかしいというのだが、それと通じるものがある。
⑶は、詩人の祖国愛と乙女への愛が重なり合った作品である。詩人は英国を愛するが、それは愛するルーシーの暮らしていたところだからでもある。もっとも、ルーシーはとうに亡くなっており、詩人が飽くまでルーシーとつながるのは思い出によってだけなのであり、英国はルーシーの記憶をとどめる土地なのである。
⑷は、まるで自然界がルーシーを愛する余り連れ去ってしまったのではないのか、とも思える内容である。
⑸もまた不可思議千万な作品である。詩人は眠り、そして恐怖心を失くすというが、いったいどういったことだろうか。私には、詩人もついに亡くなってルーシーと同じ場所に土葬に処せられ、土の中で隣にルーシーを見ているようにも思われるのだが。そして地球の自転と共に、ルーシーも詩人も永遠に宇宙を巡り続けるのである。

ルーシーのモデルが何者であるのかは専門家の間では議論が絶えない。恋人である、空想上の人物である、共に暮らした妹である、いやむしろ詩人の解決されていない内面を象徴的に描き出したものである等々、実に様々な解釈があるようだ。当の詩人本人が何とも言っていないので、どれも決め手に欠けるようである。この五つのルーシー詩編はひとまとめに書かれたものではなく、ルーシーの名は詩集のあちこちに思い出したように記されたものであるので、ワーズワースにすら統一的な意味づけがなされていなかったかもしれない(無責任な発言であるが)。モデル探しに齷齪して詩のよさを味わうのを忘れてしまっても、本末転倒であろう。余り深くは考えずに、素直に読んで直感の伝えるままにするのがよかろう。ルーシーは読み手の心の中にいるのである。

投稿者

茨城県

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

コメントするためには、 ログイン してください。