詩人の頭の中:引用ツイート合体詩

詩人の頭の中:引用ツイート合体詩

「詩人の頭の中ってどうなっているの?」と訊かれたので頭を開いて見せてあげると、「普通と変わらないね」と言われたので、「でも、こうすると光るんだよ」と、側頭葉を光らせると少し驚かれる。そのとき耳も動く。

そういや、星座も詩的なものなんやね。光の点でしかないものをヒトが頭の中でつなげてなんらかの姿形として捉える。そしてその形は大きな物語の神々を指すことが多い。

Look at its silly third “ear” feather tuft in the center of its head!
頭の中央にある愚かな3番目の「耳」の房を見てください。
△機械翻訳
「silly」は「愚かな」「バカな」って意味やけど、軽い使い方をする単語のようだ。なので訳すと「滑稽な」「へんてこりんな」三番目の耳って感じやろか。

昨日寝てるときに、頭の中に詩が浮かんだんだけど、なんだか忘れてしまった。若いころは、すぐに起きて、ミミズがのたくったような字で紙に書かないと安心して眠れなかったんだけど、いつのころからか、頭の中で何度もその詩をこね回せるようになり、そうすると、すぐには忘れないようになっていた。

・Susumu Hirasawa@hirasawa
丸一日かけて出来ず、断念したことが別の日に短時間で出来てしまうことがある。

その間、何も学んでいないのに。

それが昨日だ。
学ばず賢くなる人体の不思議。
学んでも賢くならない人体の不思議。

これって寝るからだと思うようになった。あと、経験値もありそう。
若いころは思いついた詩句を即書かないと、時間が経ったり寝たりすると忘れてたんだけど、いつのころからか、思いついた詩句や物語の概要をすぐに忘れることはなくなった。書き出すまで覚えている。てにをはや細かい言い回しまで正確に思い出せるわけじゃないけど、核となるものを忘れることはなくなった。でも、書くと忘れる。数日前に書いた詩句をすっかり忘れることはよくある。数日前に観た映画内容をきれいさっぱり忘れることもある。

なんか、今日の文章は分かりにくい書き方をしてる。自分だけが分かる飛躍をしてる。
「寝るから」の理由は、試行錯誤したものの進まなくなった作品があるとき、寝ると頭の中でそれが整理されて、起きてやるとスムーズにやれることがあるということ。

あっちからこっち
そっちからたっち
脳が活動する発見セリ!
難しいことを優しいことばに変える
練習する私の頭の中

自由なんざ頭の中にあればそれでいいのであってね
現実の世の中に出現したらたまったもんじゃないよ
道を歩けば誰かに石を投げられ
自動車はじゃんじゃん人を跳ね飛ばして進み
どうにか駅に着こうにも、「初乗り10万円ね。いやなら帰りな」つって通せんぼくらう

田中宏輔さんの「理系の詩学」を読み終わってから、なんだか目がさえて、頭の中があっぷでいと中のような感じがしている。すなわち上から紐で脳を引っぱられているように感じながら、「なるほどって理解したつもりになってるけど、実践はしてないんやから、ほんまにわかってんのか? まあ、でも、ちょいちょいは理解できてるし、3×2×1はやったこともあるねんから、わかってるほうとちゃうんやろか? なんにしても、他人様の思考方法を知ることによって、ものの見方に新たな目線が加わったわけやわなあ、徹底してはるなあ、徹底してはる人の書くものは力があるなあ」とか漂っている。

・『受粉。』 田中宏輔→http://bungoku.jp/monthly/?name=%93c%92%86%8DG%95%E3#a103

・『LIVING IN THE MATERIAL WORLD。』田中宏輔→http://bungoku.jp/monthly/20130701_324_6936p.html?mobile_ua=1

なんか、去年から田中宏輔さんフィーバーが続いていますが、詩人にとっては、本当にヒントだらけな人だと思います。昨日発表した作品もものすごいヒントが詰まっている。まず前半部は、おなじ文章を使った内容に、核としてはめこむ言葉を変えただけの作品です。この手法は、詩人なら多くの人が一度は思いつき、試したことのある手法でしょう。例えば、作中にある「僕」を「俺」に変えたり、「男」を「女」に変えたり、「人」を「犬」や「手帖」に変えたりして、その変さ、面白さを楽しむ。従って、この田中作品を読んだ人の何人かは「そんな手法は知ってるよ。それをただ繰り返しただけの作品じゃねーか」と感じたことでしょう。確かにそういえないわけではない作品内容です。しかし、では、これだけ執拗に繰り返した作品を、実際に目にしたり、自分で作ったことがあるのか? ここに、この作品(前半部)の面白さがある。以前の思考散歩に書いたように、自分の頭の中で考えただけの物事というのは、現実世界には存在しない=ゼロと同義でしかありません。次に、自分が考えた物事を、自分だけがわかるやり方で作り出してみるというのは、存在としては一になるのですが、他者と共有の出来る物事ではない。これを不特定多数の人と共有でできうる物に作り上げることによってはじめて、他者と共有できる作品になる。また、この『LIVING IN~』という作品は、詩としては長文であるため、何処かの詩誌に送ったとしても、おそらく掲載される作品ではないでしょう。従って、この作品を他人が読むためには、同人誌を作って載せるか、自費出版で本を出す必要がある。もちろん、それも方法としてはありですが、それだといちいち経費がかかってしまう(出版となると百万円近くかかってしまう)。そこで、ネット上で発表するということが生きてくる。私はミクシー上で詩・小説・ネタ日記を書いていて、多くの人がネット上で読んでくれる文章量は原稿用紙2~3枚が限度だという実感を持っています。そして、そういった経験があるために、長詩を書くことをためらう意識がありました。しかし、実際に読んでもらえるかどうかは別として、ネット上だから長詩を簡単に発表できるというのも事実なわけです。ちょいと脱線。
田中作品に話を戻して。
この作品の前半部は同じ文章の繰り返しですので、作品を読み進んでいると、繰り返されている文章は覚えてしまいます。で、すっかり覚えてしまったら、後は、はめ変えている言葉だけを追って読んでみるのも面白い。頭の中で、同じ文面が展開されるものの、チョイスされている言葉によって、その展開の質が変わることがあります。少し書き出すと「深遠・将棋盤・神さま・緑・槍・片隅・・・」これらは、質の違う言葉であることが分かる。こういった質の違いを並べられると、頭の中で、言葉に対する印象や、思い浮かぶ風景が飛び跳ねることがある。言葉が跳躍するというのか、イメージが跳躍するというのか、上手く説明はできませんが、額縁となっている文章を覚えたら、あとはつぎつぎとスクロールさせていきながら、変わる言葉だけを追ってみましょう。これも、スクロールのできるネットならではの楽しみ方かな。

中身の頭の私
中身の私の頭
頭の中身の私
頭の私の中身
私の中身の頭
私の頭の中身

・養老孟司『希望とは自分が変わること』より引用
 元来私は理科系だが、その中でも博物学志向である。博物学はモノから発想するのだから、頭の中だけで考えるのは、じつは苦手である。(略)
 私がネット関係が苦手なのは、そのためである。ネットに出てくるのは、つねに「だれかの頭を通ったもの」である。写真ですら、そうである。自分で虫の写真を撮っているから、それはよくわかっている。標本の足の位置が気に入らなければ、標本を直す。ところが現物の生きた虫なら、足の位置は虫の都合である。私の都合は関係ない。
 私の都合でないものを考える。それなら私は考えやすい。政治や経済が苦手なのは、どちらも所詮は人が考えてやることだからである。人が考えてすることは、あまり面白くない。根本的には関心が沸かない。どうせ人のすることじゃないか。それでお終い。
/略/
 人について関心があるのは、だから無意識である。解剖学で扱う身体は、まったくの無意識である。本人の意識はとうの昔に消えてしまっている。でも身体は残っている。なんとも不思議じゃないですか。
 意識は脳のはたらきだが、そうしつこくいわなければ、だれも脳で考えているとは思わない。たかが千五百グラム、それが「正しいのは私だ」などと叫んでみても、やっぱり千五百グラムを出ない。そう思ってもらえたら、原理主義なんか消えるはずだが、やっぱり消えない。ということは、原理主義は人にとって必要なものなのであろう。
 つまり私は原理主義の内容に関心があるわけではない。人はなぜそれを必要とするか、そちらのほうに関心がある。

揶揄する意味で使われる「ポエム」的な作品ではなく、詩中に「天使」という語を入れるのは非常に難しい。これは「天使」という単語を目にした人の頭の中にいろんな意味(多くは嘲笑)が含まれているからだ。この言葉には宗教的にな意味が含まれるが、もっと単純に「天の使い」という意味のものとして捉えたらどうなるだろう?
天≒空からの光≒太陽。太陽の力を受けて育つもの≒生命。天を使う、あるいは天からの力を使うもの≒天使。とまあ、こじつけではあるが、そう捉えることのできる言葉ではあるだろう。これまでに私が書いた「てんしのかきかた」に出てくる赤子・幼児たちは、私が実際に目にした者たちだ。台詞などは手を加えた箇所もあるが、創作して書き描いた場面・展開ではない。このときに注意したいのは、天使=赤子・子供=無垢な者・穢れのない者といったような、ステレオタイプ化したものの見方をしないようにすることだ。どこを切り取るかという主観の問題はもちろんあるが、自分が見たままの場面・展開をそのまま描いてみる。安易に子供目線になろうとしたり、子供が考える(と大人になった自分が思いたがる)ものの見方を採用しないように注意してみる。

愛する事によって愛する事に気づいた
ここは静かで
とても広い
自分の心音を感じる
口元がほろこび
頭の中に幸せ物質がいっぱいになる
その人の心音を感じる
ひとつの海
あい対する空
一歩足を踏み出して
色づく世界に驚きをかくせない
しっかりと地球の上に立ち
しっかりとその人を愛する

・『セネカ 現代人への手紙』中野孝次より引用
我々はその全体において人間の運命の制約を眼前に思い浮べ、何がしばしば起るかでなく、どれほどの範囲において起りうるかを、頭の中であらかじめ先取りしておこうではないか。もし我々が運命に圧倒されまいと望むなら、そして異常な、かつてあったためしのないような打撃によってぼうっとなるまいと望むなら。運命というものを我々はその全重量においてよくよく考えておかねばならないのだ。

・『戦争詩歌集事典』高崎隆治より引用
「(略)今は輝く太陽も、おほらかな五月の空も、一面の麦の緑も、壊れ崩れる家屋も、部落一面の大火も、もう網膜に映らない。前面に伏せた友軍歩兵の事すら、もう頭の中にはないのである。只心でもつと早くもつと多く射たねばならむ。早く敵を殺さねば……その焦燥ともつかない思ひで、心は燃えて居る。敵への恨みでも、怒りでもない。敵が支那兵であるという意識すらないのである(略)」(大野時雄)
▽『ある婦人の肖像』より抜粋。T・S・エリオット/岩崎宗治訳より引用
ぼくの頭の中で鈍いトン・トンという音が鳴り出して
不条理で自分勝手なプレリュードを叩いている。
気まぐれな単調さ、
こいつは間違いなく「調子はずれ」だ。

・『人生処方詩集』エーリヒ・ケストナー/小松太郎訳より引用
精神的に利用しうる詩句を書くことは、かねてからわたしが努力してきたところであった。わたしは、個人的な気分や意見の発表に過ぎないような出版は、わたし自身の欲望に反して、いっさい、つねにさしひかえてきた。そして、すでに言ったように、数年以来この『抒情的家庭薬局』がわたしの頭の中に浮かんでいたのである。治療に役だつような一つの案内書。普通の内面生活の治療にささげられた一つの便覧。

「事実は小説よりも奇なり」という言葉は、実際に起こった出来事には、人が頭の中で考えて作った小説よりも奇妙な出来事がある、というような意味で使われることが多い。これと同じように、実際に存在する生物も、人が考えた空想生物よりも奇妙であることはよくある。奇書の紹介によく登場するハラルト・シュテュンプケの『鼻行類』という本は、実際にはいない生物を博物記風に紹介している。私はこの本を30代のころに読み、おもしろい本だとは思ったのだけど、実際の動物行動学のほうがよりおもしろいものだと思った。これは見た目に関しても同じことがいえる。例えばツノゼミという昆虫だ(トップ画像参照)。こいつらはめちゃくちゃへんてこな頭飾りをつけている。
養老孟司さんの発言だったと記憶してるんだけど(うろ覚え)、「一日に一回は人間が作ったモノ以外のものを見なさい」というのは大切だと思う。人間が作ったモノは、人間の頭の中で考えられる・考え付くモノでしかない。そうじゃないもの、例えば自分の指は、人間がデザインして作ったモノではない。庭の植木も、そこに潜む昆虫も。では言葉はどうだろう? 言葉は人間が作ったモノなんだけど、「作られた言葉」「みせかけの言葉」だったり、「虚構」「嘘」という線引きをヒトはしようとしがちだ。もちろん、私も線引きはしている。でも「作られた言葉」「みせかけの言葉」とはなんだろう? 「使えない言葉」なら、まあ判断はできる。「アクティビティー」という言葉を私は使えない。でも「アシティビチー」なら使える。沖縄の豚足料理。

お腹が空になった
お腹が殻になった

空になった身体
(鳥が飛んでいます)
殻になった身体
(敵から身を守ります)

頭の中が空っぽだ
(鳥が飛んでいます)
頭の中が殻っぽだ
(石頭のイメージです)

頭の中の引き出しのことを考える。書物からの情報でしかないものの、自分が生物の生態を知りたがるようになって以降、自分に影響を与える物事のほとんどは食い物と同じなんじゃないかという考え方をするようになった。たとえば、ほとんど詩歌の情報を持っていない人が詩歌を読んで感動してすぐに、自分も何か書いてみようと筆を取る。するとそこに書かれる詩歌は、まず間違いなく、読んで感動した詩歌からの影響が読み取れるものにしかならない。汚い話になるが、食べてすぐにもどしてしまったために、未消化のものが吐しゃ物として出たことが分かるわけだ。食べてすぐに吐き出さずに消化するまで待つとどうなるだろう。食べたものは、胃や腸で栄養を吸収されて自分の身体を作るためのものとなる。読み物だとどうだろう。何冊か詩集を読んで数日寝たあと、詩を書いてみる。そして改めて読んだ詩集と書いた詩を見比べてみると、自作詩のいくつかのは、読んだ詩集の中にあるものと同じテーマを扱っていることに気づくだろう。模倣しようと思ったりぱくったりしようとしたわけではないのに、同じテーマを扱っていたことに気づく。しかし、そうやって自作と詩集とを比べていき、同じテーマ、似たテーマと感じられたものを抜いていくと、模倣ではない自作がいくつかは見つかるだろう。読んで吸収して消化しおわり自分の身体になったわけだ。もちろんこれは比喩として語っているのだけれど、自分自身の経験としても語っている。連詩中に書かれた自作詩は、参加された他人の連詩と同化する作品になりやすかった。これは、読んだ連詩をそのまま戻したことから起きた相似といえる。他方、この連詩経験が生きてくる時期というのが、連詩が終ってしばらくしてから起こることがある。自作に変化が起きたと自分で感じられるのはそういうときだ。

「どんな風になってるのか、頭の中を覗いてみたい」と言う人に、「入場料が五百円かかるよ」と言うと大抵は笑ってくれるものの、入場料を払って見物した人はがっかりした表情で帰っていくことを知っている。
だから
詩人は、
自分の頭の中を覗き見ようとは思わないのだ。

本能は将来を見ている。それは過去を知らない。(ファーブル昆虫記)
いやあ、おもしろいなあファーブル昆虫記! イスパニアダイコクコガネというフンコロガシの話で、繁殖期になると、母親は子供(幼虫)が成虫になるために必要な餌(糞)を丸めて転がし、地中の巣に運ぶ。運び込まれた糞玉は幼虫のゆりかごになるわけですが、母虫が、糞玉に卵を産み付ける前に、地中の巣を地上にひっくり返すとどうなるか? 糞玉が地上に出てしまうと、日にさらされて乾燥してしまい、その糞玉の中で幼虫は成長できません。なので、母虫は再び糞玉を地中に戻し始めます。これは何度やっても、くり返されます。巣をひっくり返されるたび、母虫は糞玉を地中に戻そうとする。子が育つためには、万全の体制で餌を用意しておく必要がある。と、ここまでの話を擬人化すると、どんな困難にも立ち向かい子を育てる場所を確保するために努力する母虫ということができるし、事実そうでしょう。ところが、糞玉を無事に地中に運びこんで、その糞玉に母虫が卵を産みつけたあと、巣をひっくり返したらどうなるか? さきほどまでは、子の餌となる糞を乾燥させないがために、なんどでも繰り返し地中に戻そうとしていた母虫は、自ら卵を産みつけた糞玉が地上に出て日にさらされてしまっても一向に構う様子もなく、どこかへと行ってしまう。過去→現在→未来と流れていく時間という観念は、人間が頭の中で作り上げたものです。母虫は、糞に卵を産みつけた時点で、万全の体制で糞玉に卵を産んだことになり、それ以降は、その作業のことを忘れてしまう。「忘れる」というと語弊がありますが、糞玉を地中へと運び→卵を産み→ふたをする→つぎ行ってみよう、という進行方向が逆を向くことはないわけです。過去を知らないといえばいいのか。

今読んでいる『ハイペリオン』という小説は、「ジョン・キーツの物語詩を元に再構築した物語で物語の中に物語を入れ込み、巻と巻を対にし、さらに執筆者が全体の物語を語るキーツの役割を担っている。多重の入れ子構造を持った小説」(ウィキより)ということで、これを読んでいると、以前、引用詩についての思考散歩に書いたことのある、「じゃあ、自分の言葉ってなんやねんやろ?」という問いかけが頭の中に起こる。私自身はなんとなくはじめたことなんだけど、自分が面白いと感じた詩や小説の一部分を書き出す行為をしていると、書き言葉の働きということを考えるようになる。自分が面白いと感じた小説のある箇所を書き出すということは、自分にどういう働きかけをするのか? なぜ、その箇所を自分は抜き出すのか? いろんな疑問が発生しながらも、ひとつわかっていることは、書き出したことばの多くは、自分が納得した(あるいは肯定的に捉えた)文章だということ。そして、それは、自分の思想を形作る言葉になるということだ。なぜなら、面白いからという理由だけで書き出していた文章内容はその後、自分が書き物をする際にテーマに使っていたり、自分の書いたものを読み返してみると、書き出したことと同じ内容を書いてることに気づいたりしたからだ。言ってることは同じなんだけれど、私というフィルターを通して再構築したものを書き出す。でも、それは自分の言葉と言えるのか? もう少し踏み込むと、それは自分の思想と言えるのか? 言葉の組み替え方にオリジナリティーは作れるのかもしれないけれど、それは何通り作れるのか? という数の問題にしかならないのではないだろうか。じゃあ、自分の言葉ってなんやねん? 他所から、自分が納得した言葉を持ってきて継ぎはぎして作品を作っても、それは同じことではないのか? 私が引用詩に出会ってから考えたのは、いまのところここまで。で、ここから展開して、ということは「自分の言葉とは、他人の言葉から作られるものなのだ」という仮定を立ててみる。他人の言葉というのは、自分が外の世界に向かって書いた言葉も含まれる。というより、自分の書き言葉というのは、自分を最も強く形作るものといえる。なぜなら、自分の書いた文章を最も多くの読むのは自分だからだ。書くことが好きな人は、自分の書いたものを読み返すのも好きなはずだし、作品として書き作るものであれば、推敲を重ねるたびに、自分の書いた文章を読み返すことになる。では、その、自分が何度も繰り返し読む文章の内容が、自虐的・厭世的・退廃的なものだとしたらどうだろう? なげき車の中を回り続けるハムスターになるのではないだろうか。
なげき
なげき
なげ

キッスがしたいのでチュー

なんか無理やりそらしてないか?
「無理やり剃るの? カチンコチンコはパイパンってこと?」
お前の頭の中には下ネタしかないのかよ!
「そうなの。詩のネタばかり考えてしまうのよねえ」

昨日、古本屋でル=グウィンと一緒にフレドリック・ブラウンの『未来世界から来た男』も購入した。フレドリック・ブラウンはショートショートの元祖的存在で、星新一に影響を与えた作家。私はどうも、1950~60年くらいのSFを特に好む傾向がある。理由を考えてみると、その時代のSF作品(ミステリーも)というのが、私がリアルタイムで接した多くの作品(テレビ・映画・漫画)の基になっているせいだと思う。中でもフレドリックの作品は、古典的なオチが満載の作品群だ。が、しかし、あまりにも古典的すぎるがゆえに、いまの若い人にはアシモフの展開、叙情的なものならブラッドベリ、「なんだこれ!」と驚きたいのならスタージョンやラファティあたりを薦める。でも、そういうことを、「それはそれ、これはこれ」とワキに置いておける人であれば、フレドリック作品は読んで損はない。基礎的な物語の展開と、読み手を驚かせる手法がてんこ盛りだからだ。詩にもいえることだけれど、書き手の頭の中だけにある展開の飛躍というのは、読み手にはまず伝わらないものだ。その伝わらなさを補うために、徹底した描写力・分かり易さ・飛躍したイメージを関連づけさせる巧さ、などが書き手に必要になる。で、こういうことを地で出来る人はほとんどいない。こういうことを地で出来てるように他人からは見える人のことを「天才」と呼んだりすることが多いが、これは今でいう「天然」と同じで、何作かでその天然具合が時代にマッチしていたとしても、さらに作品を重ねるとすぐにボロがでるようになる。SF小説というのは、現代には存在していない物事(宇宙人・宇宙船・兵器・ロボットなど)を取り扱う物語なので、書き手が想像・創造した品物を、読み手に理解させるように描かないと、いくら話が面白くても、読んでもらえない失敗作になってしまう。したがって、何年も生き抜いた作品は読み手に理解されるように、作品世界を上手く描いたものがほとんどだ。このことが理解できると、自分の書き物にも使える手法・ワザがたくさん見つかるようになる。

投稿者

大阪府

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