沼
深いモスグリーンの森で
白く咲きそろう水草
淡溟(うすくら)さに身をひたして
沼のほとりに立った時
「足立様!」
私を呼ぶ澄ましたテノールの声
真下には輪郭のぼやける女が
靄のおりた様な山かげを仰いでいて
口角だけを上げて笑っている
もし今、目を合わせてしまったら
忽ち私の背中はちんまりと丸くなり
枯れ枝のような手と
しわ深い顔に白髪が残るかもしれない
視線を逸らし
お薬渡し口のカウンターへ歩み寄る
前頭部が薄毛で
やさ面な薬剤師から受ける
はずみのついた口調の丁寧な説明
支払いを済ませ薬袋をバッグに納めて
もう一度、壁に掛かった額ぶちへ見入る
東山魁夷、『沼の静寂』
人も動物も描かれていない沼に漂う
なにか深遠なものの気配
ダウンコートを着込み手袋をはめながら
ふと感じる胃の軽さ
白葱の突き出たポリ袋を提げると
「おだいじに」
朗らかな声でドアの開く夜道へ送り出されて
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