のようなもの
小説を書いてる人は
小説 のようなものとは云わない
脚本を書いている人も
脚本 のようなものとは云わない
専門書を書いてる人 批評を書いてる人もまた
のようなものとは云わない
絵を描いてる人が
絵 のようなものとは云わないし
漫画を描いてる人が
漫画 のようなものとは云わない
音楽を作っている人
映画を作っている人
ドラマを作っている人
服を作っている人
料理を作っている人
器を作っている人
エトレトラ エトセトラ
誰も だぁ~れも
のようなもの とは云わない
だからさ
もう 詩のようなもの
などというのはやめないか
誰がなんと云おうとなんと思おうと
これは詩だと 詩でなにが悪い
なにか問題でも? と
作者は堂々と胸を張っていれば
それでよいのだ
コメント
私も、長いこと、詩(のようなもの)を書いていたのかもしれません。でも、まだ自信がありません。時々、…のようなもの、をくっつけて暮らしています。
一見すると筋が通っているようだけど、違和感があつたりして
たのしい文章ですよ。いろいろなツッコミのうちひとつ言うと
たぶん、完成品としての小説の本や絵画や音楽の曲を言ってて
小説家も「まだ完成してないけど」とか絵描きもラフに描いて
とか作曲家もまだ鼻歌からでまとめていてとかあるわけですし
詩に至っては詩集として本人が出してしまえば別にしても、
詩読み人のわたしなんかは詩を書いたことないし、いつも
詩のようなものを他人様の板に申し訳ないけど、載せてもらっている
そんな感じで30年(一時期プログやってたときは別?)です。
詩はとても弱い 弱すぎる からか その傾向が強いのは わかります。
ただ 今回のは 強すぎて 言葉の優しさ言葉の沈黙が 隠れてしまう
こういう作品が読めることは振り返るためにもとても良いとおもうので
わたしの文章は矛盾しているのかもしれないけど感想を置いときますね^^
@長谷川 忍 さんとわたしの言っていることは近いのかもしれません。
長々と書き綴りすぎたと反省します。恥ずかしい。ごめんね雨宮さま
@長谷川 忍
さんへ
コメント、ありがとうございます
こと詩に関しては、何故に「のようなもの」と云ってしまいがちなんでしょうね
自信のなさから来るものなのかもしれないし
もしかしたら、詩というものを
とても難しく考えてしまうがために
あるいは、大昔の名のある詩人の描く詩のような
ああいったもの出なければ
詩、ではない、と思ってしまうんですかね
いつも思うのは、その先人たちが描いてきたような
詩の様式、形態、コトバ使い、などなどに
意識が行き過ぎなのではないかなぁ、と
もっと型を破ったっていいと思うし
自分の描いたものに、もっと覚悟を持って
堂々としていたらいいのになぁ
と、私は思ってしまうわけです
ありがとうございました
@足立らどみ
さんへ
ここではあくまで、完成されたもののことを云ってます
らどみさんの云うところの
たとえば、まだ完成されていない小説やラフ画や
ハナウタで作った歌などですが
それでも、のようなもの、とは云わないんじゃないかな
まぁ、らどみさんは云う、と云うなら
それはそれで、そうですか、としか云えませんが
のようなもの、には
どこか保険というか、逃げ道を作るための
覚悟を伴わないコトバのように思えます
らどみさんは、よくAIさんと対話されてますけど
AIさんが出してきた回答を
のようなもの、と思ったりするんでしょうか???
ありがとうございました
@足立らどみ
さん
あと、細かいことですが
わたしの名は、雨宮、ではなく、雨音陽炎(あまねかげろう)ですので
@雨音陽炎 さん
名前まちがいごめんなさい。
たしかにネットないといえども詩を載せるのならば
のようなものだけを読みたいという気持ちはないです。
勉強になります。ありがとうございます。
再読しました。
詩とは何かとときどき悩むことがいつのまにかライフワークのようになっている わたし
なのにドツボにハマっていてもそれすらも意識していないのは性格なのでしょう
AIとの語らい等を誰よりもはやくネット詩サイトで取り上げたひとりとして
今はまだ過程なので、断言できないのですが、愛に盲目に生きるのがイエス
の子どもたちならば、蛇がくれた赤いカプセルは為政者に都合の良いように
騙されない人生を送る大人になるイニシャレーションで必要なアイテムかと
一度しかない人生を主体的に生きるのはときに窮屈かもしれません。
コミュニケーションも大切ですし、だからと言って流されない為に
最弱を盾に変えて土台を固めすぎると角が立ってしまいがちですし
とかくに人の世は住みにくいものですね。