既に誰かに書かれた詩と、表現の価値~謎の詩人・煙良木真夜に迫る
先日、ジャン=リュック・ゴダールの遺作となった『イメージの本』という映画を観た。
古今東西数多のアーカイヴからカットアップ・コラージュされた映像が延々と紡がれ、そこにゴダール自身のナレーションが重なっていく。冒頭『アンダルシアの犬』のワンシーンから始まり、フェリーニ『道』、パゾリーニ『アラビアンナイト』、ファルハディ『彼女の消えた浜辺』、溝口『雨月物語』など、お馴染みの作品からの一コマもあれば、映画好きの私でさえ何のどこの場面かわからないくらい細切れになった映像を次々と引用していくので、これがどういう類の映画なのか判別するのは難しいし、批評すればするほど本質から遠のいていくような気がする。ゴダールは最後の最後まで、我々の理解の外側で映画に魂を込めたのだろう。しかし、ふと疑問に思う。これは果たしてゴダールの映画なのだろうか、と。
どの映像とどの映像を繋ぎ合わせるのかを決めているのはゴダールであり、そこには彼の意志がある。新撮部分やナレーションの内容によって彼からのメッセージを受け取ることもできる。だが、映画として投射されるのは、あくまで「誰かが撮った何かの映像」の連続でしかなく、ゴダール自身のオリジナリティがあるわけではない。つまり、この映画におけるゴダールの表現とは、既に表現されたものをリメイクすることなのではないか。そこに気付いた時、この作品が提示するテーマの一端がうっすらと見えてくる。
映画に限らず、音楽にしても絵画にしても、もちろん詩にしても、あらゆるものが長い歴史の中で既に表現されていると考えられないだろうか。あなたが見た風景、あなたが抱いた感情、あなたが辿り着いた真理といったものは、偉大な先人達によって繰り返し語られてきたはずだ。例えば道端に咲いた花の美しさや夕暮れの空の寂しさなどというものは、これまで無数の色や音や言葉で描かれてきた。いくら斬新な方法でその花や空を表現したとして、何かの焼き直し、何かの翻案、何かのアレンジではない、と自信を持って言えるだろうか。果たして「この世に一つとして似たもののない、自分だけの表現」などというものが存在し得るのだろうか。
そもそもあなたの思想や理念だって、何かから影響を受けた集合体でしかない。親や兄弟、周りの友人、書物やテレビ、コミュニティや社会から、望む望まないに関わらず少しずつ堆積したもので形成されているわけで、あなた自身の、唯一の、アイデンティティなど存在しないのかもしれない。つまり何をしたって誰かの真似事、何を表現したって既製品。デュシャンは便器にサインをして別の意味をもたらすことに挑戦したが、それくらいのことしかもうやることがないのならば、いま表現することにどれほど価値があるのだろう。
さて、ここで一人の詩人を紹介したい。突如ぽえ会に現れ、三作の重厚な文章作品を投稿した謎多き詩人・煙良木真夜という人物だ。まずはその三作を読んで頂きたい。
●「メルストグォンの墓」
▶︎ https://poet.jp/photo/1045/
●「メッツァーフェルドはかく語りき」
▶︎ https://poet.jp/photo/1066/
●「メルストグォン、メッツァーフェルド、そしてデペルゲスモアースのグループによるケップアドエット現象の考察とマイスフィアパッカーウェルの意外なる反論ならびに近代社会が否定してしまった原子的可能性についての最終章」
▶︎ https://poet.jp/photo/1095/
ドイツ語のような専門用語が並ぶ、非常に難解な科学論文の体裁を取りながら物語が進む。一作目に登場する「セズファース」「ジアムール」「ゴーイギューイ」という語句は、それぞれ時間・感覚・記憶を司る神話的存在からの引用であるが、読み取れるのはそのくらいしかない。例えば「ケップアドエット現象」というのがどういう現象を指すのかまったくイメージできないし、説明されるそれぞれの単語の詳細も明かされない。何か別のものに置き換えて、それっぽい解釈をすることも許されない。三作目第三節の「神は死んでなどいない/なぜなら、最初からいないのだから。」という結論から逆算したとして、具体性を伴わない先の文章をいくら読んだとて、そこにある言葉に意味を見出すことは凡人にはできないだろう。
結果的に「神は死んでなどいない/なぜなら、最初からいないのだから。」というシンプルだが衝撃的な一文だけが読者に突き付けられる。おそらくそれこそが煙良木氏が作品に込めた最も重要なテーマなのだと考えられる。「神は死んだ」と唱えたニーチェのニヒリズムは、煙良木氏によって究極的な虚無へと変貌を遂げる。その虚無を引き出すある種の前フリとして、それまでの難解な文章があると捉えることもできるだろう。煙良木氏の独特なワードセンスと構築美には「この世に一つとして似たもののない、彼だけの表現」という印象を受ける。前述のように、何かの焼き直し、何かの翻案、何かのアレンジではないものを作るのは簡単なことではない。そして、真似事・既製品でない表現にこそ価値があるならば、煙良木氏の作品以上に価値のあるものを、そうそう見つけることはできないであろう。ゴダールがあと少し生きていれば、この作品をリメイクしていたかもしれない。
トノモトショウ プロフィール
1980年大阪生まれ。第一期「日本WEB詩人会」にて企画・編集担当、詩投稿サイト合同企画「ネット詩コンクール」の運営補助などを経て、2005年より表現結社「Fuck the People」を主宰。詩集「快楽天使」(2004年)、アンソロジー詩集「Be Free」(2006年)。
好きな通貨はルピー、好きな麻雀牌はチーソー、好きなジョニー・デップは「シザーハンズ」。
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