感想文的自由なコラムPOECOLポエコラ #012

坂本達雄

「半分オートマチズム」って適当すぎるんじゃないですか?

#012|2022.12.27

極自然に書こうと思う、しかもライトに、それでは何から始めようか。それではこのように書くとするか、『詩は詩の神に捧げられる』と。しかしこれは言葉である、詩の神が存在しないとする人には何の意味も持たないことである。それでもこのテーゼから始めなければ、わたしの言葉は全てが陽炎になる。二十歳の頃から詩を書いているが、その頃からこのように考えていたのである。果たして詩の神がわたしの詩を読んでいるのかは不明である。多くの神がそうであるように、詩の神もまた『どこにいるのか』不明瞭なのである。そして彼の人格、彼の意志、彼の晩酌もまた不明のままである。

人間はその存在する場所に慣れるものである。そして慣れてしまえば、その時から言葉はすぐさま死を許容する。健全なる戦いの場に於いてのみ、剣は楯はそのすばらしい能力を発揮する。撃ちてしやまむ。何故にそれほどまでに言葉で叩くのか。それは自己が言葉によって我が身を立てるからである。それは自己の内部に於いて常に戦場となっている『言葉の砦』なのである。矢が飛んで来る。火矢も飛ぶ。投石機もある。そして群れ為す兵士たちは城壁を登り来る。ここは戦場である。

しかし言葉の戦場は詩の神が見守るギリシャ的神と、英雄的人間の、神話的世界である。何事も可能である。超現実の世界でもある。ここに於いては言葉はマジックである。意味も無意味も可塑性を持つ。現実を遊離して、わがままの限りを尽くし、次元を越境する。そのことは果たして詩の神の許すことであるのか。我々の世界は言葉の定義に於いて成立している。それらは「辞書的言語」と呼ばれるものである。わたしはこの「辞書的言語」を敵としている。仮想敵であるのか本質的な敵であるのかは不明である。ただこの敵には多くの支援者が存在する。資金を援助し、新しい武器を供給している。そのような状況は遥かな古代から少しも変わらないものだ。わたしはそのことを良く理解しているつもりだ。

そして今わたしは詩作する時に、いくつかのことを前提している。

一、 テーマは設定しない。何を書くのかは事前に設定しないようにすると言うことである。このことは大切である。意識的に書こうとしてはいけないと言うことである。
二、 詩を構成してはいけない。つまり書く時にはすべてを成り行きに任せるべきであると言うことである。
三、 とどめの一行を用意しない。詩の中に現れるとどめの一行はとても魅力的なものである。しかしこれを目的としてはいけない。全ては流れである。
そんな方法で詩が書けるのか心配であると聞かれても、わたしには分からない。ただ最近の作品はほぼそのような方法で作っている。そんな方法でもできるのであると今は言えそうである。ただしこの方法は「オートマチズム」とは違う。どのように違うのかと言えば、わたしは噴出して来る言葉を意識的に選択している。完全なるオートマチズムではそのような事は邪道となる。わたしも完全なるオートマチズムでやってみようとした事はあるのだが、あまりに無謀であることが、すぐに分かった。向き不向きはこのような事にも存在するのである。今のわたしの方法は『半分オートマチズム』とでも呼ばれるべきものである。

それからこれはどうしても言っておかなければ駄目なのだが、詩の音楽性は保持すべきものです。それはわたしが日本語で書く以上は必要な要素です。言葉が出現する時には、つまり言葉が誕生する時には、『音韻』は必然性を持ちます。その音韻が我々の精神の奥、ある意味では『深奥』に於いて受け止められていることは重大な事実です。ですから読んでリズムを感じることも、音韻が深く浸透することも大切な事なのです。こころが感覚する能力は「科学的にはいまだに未知です」。しかし詩を愛する人間にとっては、詩が普通ではありえない現象としての「心理的現象」を成立させていることは、あまりにも確実な経験的事実です。このことを知っていればこそ詩を愛することは、「栄光」と「残虐」を感覚することと同意となるのです。少なくとも現在に於いて「詩作すること」は、こころの高揚と、こころの引き裂かれを同時に経験することとなるのです。

〈poet.jp〉に於いては多くの詩人の皆さんの現在進行形のリアルな詩のあらわれを楽しんでいます。中でも〈たかぼ〉さんの知的挑戦には、とても刺激を受けます。『Last Night』も軽いのりで作られているようでいても、その中に潜んでいるのは、時代と密接に絡まっている我々の精神的捕縛であり、楽しいふりをして次第に締め付けて来るのは、どうしようもなく我々の置かれている地球と言う天体そのものです。

あっ。突然 詩の神が呼ぶ。 ピクルスは食べましたか。ふんどしは洗いましたか。ポエムは祭壇に捧げましたか。憑依した現代のポエラーの、十字架は浄められましたか。戸袋の中に蜂がいる。まるでクロアチアの骸骨のような蜂です。新感覚するホラノチスは、眠りの棒を振り上げる。キョウビのバタフライたちは、まるで箱根を越える戦車のように。前を見ない、風を知らない、条件反射しない、それだけの淡雪です。それで過去の不始末が尿酸のように傀儡となる。ヘイベビー・へいべいびー・ぽるとがる語で、おいどんが行く。

坂本達雄 プロフィール

1955年に大阪市内に誕生しました。1961年の第二室戸台風で住んでいたアパートが水没。その後、東京・岡山市・倉敷市と空間移動。
ところが2018年の西日本大雨にて、我が家が再び水没することに。
今は丘陵地にて生活しています。個人的神を信じる者です。ほとんど同人誌・またフェイスブックにての活動です。

坂本達雄