言葉

「うつくしいな」

目の見えない私に、無口な羊はそう呟いた

髪の毛を触っているのが羊なのか、
足先をくすぐったのが羊なのか、
手を繋いでくれたのが羊なのか、

何一つ分からないまま、
たぶんそれが無口な羊だと私は思うしかなかった
やさしいものは全部無口な羊だった
目が見えないから

東京タワーがふるくさくなっていく

無口な羊はいろんなことをいろんなふうに偽った
自分が狼であるとか
生まれながらに呪われた血筋であるとか
明日は絶対に雨が降るとかのどうでもいい偽りで本当の自分を隠したがるのだった

ベッドタウンが静かに忘れられていく

無口な羊

「うつくしいな」

触れられたところからたまらない熱を感じるので
恋しているのだろうと思ったが
羊は恋をするのだろうか?無口な人を好きになるのだろうか?
目が見えなくて分からなかった

私は目が見えるようになりたかった

私に触れたものが本当に羊なのか
私が触れたものが本当に羊なのか
隣同士でいたことがあったのか
この目で見たかった

無口な羊は眠っている私に美しい口づけをした

祈りと願い
神の息
呼吸しない私の
きれいな心臓

「うつくしいな」

何かよく分からない形をしたものがそばで呟いた
海が近いのかと思うような
潮騒が聞こえた
目が見えてもまだ聞こえた

それは無口な羊のやさしい声だった
だからたぶんこれが私に口づけたのだろうと思うしかなかった
見えるようになったからといって何も証にはならなかった
信じるとはそういうことだと分かっただけだった

これが目なのか、と私は空を仰いで、諦めを知った

「うつくしいな」

私のまぶたに口づけたのと同じ温かさの涙を流して
無口な羊は
やっぱりのろいのように同じことを繰り返し呟いて
他の人には見せない顔だ、と性懲りもなく偽った

君はきっといなくなるだろう、と
怯えも怖がりもしない私に
無口な羊はもう触れようとしなかった
私は窓の外を見た

ミルクティーが冷める前に飲み切るのはマナーだった

ずっとなぞっていた懐かしい輪郭
前よりも近い距離
知らなかったことまでも
いつの間にか気付けるようになって

私はあなたを愛してみたい、とどう伝えたらいいか全然分からなかった

無口な羊

それが敵意だと
疑いだと、絶望だと、裏切りだと
目で見えるようになって分かってしまった
そのふわふわの憎悪で抱き締めていいのかもうよく分からなかった

「うつくしいな」

無口な羊
いずれにせよそれは
のろいのように繰り返されるあの言葉
見えない頃には戻れないのだということだけが確かだった

何も言わなくなった
本当の無口な羊
夕焼けと同じ色をした
沈黙

きれいなひとだった

目の見えない私を
美しいと言っていたこと
それがもう二度と
あんな風に呟かないであろうこと

同じになる必要はなかった、と目を閉じる

それでも私は
たぶん聞かせてみたかったんだ
気が狂いそうになるほどの情動と
あの幸せな音色

「うつくしいな」、を

投稿者

神奈川県

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