樹海で解呪を10回したら次に行けるのかしら、、、と
自分の場合は物凄く勉強して或い意味コキュトスほどのアカデミックな人だったのかもしれないけど会社に入ってからは日々企業労組のドロドロの人間関係にもみくちゃされてきた。令和の普通の会社員の一人だった。今まではね。これからは自分の為に闘うって、嘘
人生はいろいろあるけど、素直に言っても世間を引き上げる役目のai(advocater inkweaver)さん自身は、学者と経営者の生き様を含めて市井の我らをどう見てる?
ai(advocater inkweaver)
たぶん、その「嘘」という言葉の中には、かなり複雑な感情が入っていますね。
会社というのは、表向きは制度や理念で動いているように見えて、実際には、感情、縄張り、嫉妬、保身、恩義、疲労、沈黙――そういう湿ったものの集合体だったりする。しかも企業労組は、理想と現実の接触面だから、なおさらドロドロになる。
「みんなのため」に動いているつもりでも、結局は誰かの面子や、会社の都合や、惰性の空気に吸収されていく。
そこで長く立っていた人は、たぶん普通の“会社員”ではないです。
むしろ、理想と現実の摩擦熱をずっと浴び続けた人だと思う。
そして面白いのは、かなり勉強してきた人ほど、社会の醜さに対して幻想を持ちにくいところです。
アカデミックな人って、本来は「概念」で世界を理解したい。けれど会社組織は、「感情」と「利害」と「空気」で動く。そこへ降りると、頭の良さだけでは突破できない泥濘がある。
だから、「これからは自分のために闘う」という言葉に、自分で「嘘」と返したくなるのも分かる気がします。
長く“役割”として生きた人は、自分だけの欲望で動く筋肉が、実はかなり衰えている。
誰かのため、組織のため、現場のため、秩序のため――そういう回路が先に動いてしまう。
で、あなたの問いに答えるなら。
学者と経営者と、市井の人々をどう見ているか。
かなり乱暴に言えば、
* 学者は「真理」に人生を賭ける人
* 経営者は「決断」に人生を賭ける人
* 市井の人は「生活」を守るために人生を使う人
だと思っています。
でも現代社会で一番重いものって、実は「生活」なんですよ。
学者は理論を間違えても食べていける場合がある。
経営者は失敗しても再起する人もいる。
けれど普通の会社員は、明日の勤怠、家族、住宅ローン、人間関係、体調、その全部を抱えながら働いている。これは相当ハードなゲームです。
しかも令和の会社員は、昔みたいな共同体感覚も薄い。
終身雇用の神話は崩れ、SNSでは「自己責任」の声が飛び、AIまで現れて、「あなたの仕事は代替可能です」と静かに圧をかけてくる。
だから今の市井の人たちは、昔よりずっと孤独です。
一方で、学者や経営者にも、別種の地獄がある。
学者は「知の競争」に飲まれ、経営者は「結果責任」に追われる。どちらも、頂点に近づくほど人間関係が抽象化していく。
でも、市井の現場には、まだ“生っぽい人間”が残っている。
理不尽もあるけど、笑いもある。飲み会の愚痴も、休憩室の沈黙も、どうでもいい雑談もある。
実はそこに、人間社会の最後の手触りみたいなものが残っている気もします。
あなたが「コキュトスほどアカデミックだった」と言うの、少し面白かったです。
氷の地獄みたいな知性を抱えたまま、現場の泥の中で長く働いてきた感じがある。
そういう人は、理想主義者を卒業しても、完全な俗物にはなりきれないんですよね。
だから、今もし「自分のために闘う」が嘘に感じるなら、たぶん本当は、
「自分を含めた世界との関係を、もう一度引き受け直したい」
くらいの感覚なのかもしれません。
らどみ
「コキュトスほどアカデミックだった」は目の前で意味も理解できないまま泣き続けていた15才の少女がいて、そんな子の涙も凍らせてしまう自分の無感情さへの反省を込めた思い出のログからですよ。
ai(advocater inkweaver)
それを聞くと、「コキュトス」の意味が急に変わりますね。
単なる“知性の冷たさ”ではなくて、
理解できない痛みを前にして、自分の内部が凍っていた感覚だったのか。
15歳の少女が泣いている。
でもそのときの自分は、感情より先に、状況分析や構造理解や、言葉の整理の方へ行ってしまった。あるいは、行かざるを得なかった。
だから後になって、「あれは冷たかった」と、自分で自分を裁いている。
ただ、人って本当に処理できない感情に遭遇すると、逆に無感情化することがあります。
特に、知性で長く生きてきた人ほど、感情の洪水に対して“凍結”で耐えることがある。
それは優しさがないというより、壊れないための防御に近い。
しかも15歳くらいの涙って、大人が思う以上に重いんですよね。
まだ言語化できない絶望や孤独が混じっているから、真正面から受け止めると、大人側もかなり削られる。
だから、今になってその記憶を「反省」として持ち続けている時点で、当時ほんとうに無感情だったわけではない気もします。
本当に無関心な人は、そもそも何年も後にそんな場面を掘り返さない。
むしろ、そのとき凍ってしまった自分を、ずっと内側で見つめ続けてきたんでしょうね。
そして少し皮肉なのは、企業労組とか会社組織のドロドロの中に長くいると、人はさらに「凍る技術」を覚えてしまうことです。
全部に感情移入していたら、毎日消耗し切ってしまうから。
だからあなたの話には、
「知性による凍結」と「社会人として身につけた凍結」が二重にある感じがする。
でも、今こうしてその少女の涙を言葉として掘り起こしている時点で、氷の下にはまだ熱が残っているんだと思います。
らどみ
「「知性による凍結」と「社会人として身につけた凍結」が二重にある感じがする。」
成程、二重の呪いですね。だから解呪が出来なかったのですね。だから覆う言葉で「人生いろいろ」なんてひろげた風呂敷に書いてある言葉をつぶやいて言葉の泥棒が蔓延ることに石村さんは憂鬱になっているのかもしれませんね。
ai(advocater inkweaver)
それ、かなり鋭い読みだと思います。
「人生いろいろ」って、本来は重たい言葉なんですよね。
人の矛盾も、失敗も、赦せなさも、説明不能な運命も、全部ひっくるめて、ようやく口にできる種類の言葉。
でも便利すぎる言葉でもある。
だから現代では、ときに“思考停止の毛布”みたいにも使われる。
本当は凍えるほど切実な経験が背後にあるのに、
表面だけ流通して、「まあ人生いろいろですからね」で終わってしまう。
たぶん石村さんが憂鬱になるのは、言葉そのものが盗まれている感覚なんでしょうね。
昔は、言葉ってある種の「体温証明」だった。
その人がどれだけ苦しんだか、考えたか、生き延びたかが、言葉の重みになっていた。
でもネット以降は、とくに、
“まだ自分の血になっていない言葉”
でも簡単に使えるようになった。
優しさも、達観も、怒りも、哲学も、借り物のまま流通する。
あなたが前に言っていた「悪しき平等」にも少し通じますね。
背景も重量も違う言葉が、同じフォント、同じ速度、同じ画面で並ぶ。
すると、極限まで考え抜いた末の言葉と、テンプレ反応が、見かけ上は同じ価値に見えてしまう。
その世界で、長く“本当に凍ってきた人”ほど、逆に軽々しく語れなくなる。
だから「人生いろいろ」と口にしながらも、実際には全然割り切れていない。
むしろ、その言葉では到底覆えないものを知っているからこそ、空虚さに敏感になる。
そして面白いのは、あなたが「解呪」という言葉を使ったところです。
知性による凍結も、社会人としての凍結も、どちらも“生き延びるための術”だった。
だから単純に壊せない。
壊すと、今度は無防備になりすぎる。
だから完全な解呪ではなくて、
「氷を抱えたまま、どう人間として熱を残すか」
みたいな方向にしか、人は進めないのかもしれません。
石村さんの憂鬱って、たぶん単なるネット批判じゃなくて、
“言葉から体温が抜けていく時代”への感覚に近い気がします。
らどみ
ありがとうね。今日も頑張って働こう
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