ひょうひょう

ひょうひょうとしていたい
風呂を洗う時のように
何も考えず――
でも重力や
やたら鈍い質量が
ただただ鉄色に塗りつぶされた
僕のなかにいるわけで

扇風機をまわす
かたかたと鳴る
どこを押しても
どこを叩いても
かたかた、かたかた、と鳴る

夏の色は
伸び放題のアワダチソウ
それを見上げ
動かなくなった足を
ため息ついてつねる

網膜をじりじりと灼く黄色
空っぽになったはずの器は
鉛色
どこを押しても
どこを叩いても
かたかた、かたかた、と軋む
もはや嫉妬はない
もはや先も見ない
だのに、
ひょうひょうと
なれない

夜更け、みらいが丘公園の園名碑の下
芝生の切れたとこに
熊の骨を埋め
黄色い花を手向けた

投稿者

岩手県

コメント

  1. 「重力や
    やたら鈍い質量が
    ただただ鉄色に塗りつぶされた
    僕のなかにいる」
    のところがとても印象的です。
    自分と自分以外の対比、色の配置がそれを際立たせていて、どうにもならないもどかしさが伝わってきます。
    ひょうひょうとなれなくても、それを詩にできる状態で戻ってくれて良かった。脱ぎ捨てなくて良いと思う。

  2. 昔から、境界を溶かして内臓を撫でてくるような王さんの詩が好きです。
    ここで熊の骨がくるところの必然か偶然かの、まさにひょうひょう感はすごいです。
    みらいが丘公園、ぐぐってみました。

  3. ひょうひょうとなるのは、難しいですね。
    この詩は、その難しさを 臨場感を持って、表していると思います。

    熊の骨を埋め
    黄色い花を手向けた

    次のことを遠慮無く言えば。
    この手向けられた、黄色い花は、熊へのものなのか、それとも自分へのものなのか、という想像をしました。

  4. 川柳返し

    ひょうひょうと したいが足が先にいく   らどみ

  5. 熊は公園ではなく、山に埋められたいだろうに、世界の歪みはひょうひょうと、許容しないといけないのか、許容するしかないのか、考えさせられます。
    熊に送られた花は、アワダチソウではない、山のお花であれば良いのに、と思いました。

  6. 飄々としたキャラクターで私がまず思い浮かんだのが漫画「浮浪雲」でした。このキャラクターには憧れます。何事にも動じず、まさにひょうひょうと生きています。飄々とできる原動力は武術の達人であり博学であり裕福であることなので、まさにスーパーマンなのですが。そのことからも分かるように、飄々と生きることは極めて難しいのです。原資なく飄々と生きれば人から見放され、あるいは打ちのめされてただちに立ち行かなくなるでしょう。しかしせめてときどきは飄々としたい。そうしなければならない。そうしなければ生きることのストレスに押しつぶされてしまう。それが私たち現代人であります。マインドフルネスの効能が語られて久しいわけですが、それは一種の強制的飄々であります。何も考えないということ。それは古から日本人が受け継いだ坐禅という知恵と似ています。まさに風呂を洗う時のように、私たちの中には自動的に動くロボットがいます。たまにはロボットにまかせてしまい、飄々とすることが必要なのでしょう。そうすることで不安や恐れや破壊的衝動をやりすごすことが。みらいが見えなくなったとき、みらいが見えるという名前の場所で、何かを埋め、何かを手向け、おそらく祈るという行為は、そんな無我への強制リセットでありえるなと思いました。

  7. @あぶくも
    僕はけしてカラフルな人じゃないので、こんなもんです。ひょうひょう。

    ははは、戻ってきたも何もいつも僕はここにいます(もしくは山に入っているか)
    脱ぐと案外すごいんですよ。
    いつも読み込んでくれてありがとう。

  8. @たちばなまこと
    確かに最後の熊の連は一旦これを書いた後に起こった出来事で、蛇足かもしれません。でも埋めながらこの詩のことを思い浮かべてたのでやはり偶然で必然かもしれません。

    公園は災害の復興地に作られたところで、その名前はもっと他愛のない名前です(〇〇眺望公園のような)
    詳しく書くと犯行がばれるので控えめに。
    まあ誰も来ません。僕がいるとき人をまず見たことがない。

  9. @こしごえ
    あまり書けませんが熊を処理すると金にはなります。そうはいってもきちんとした施設がいるので金もかかります。
    そして有名になってしまった熊はそういう利用もできません。ただの死。

    金がからむなんてちっともひょうひょうじゃない。
    手向けたのはみらいという名前の何かにかもしれない。
    なんてことがやっぱりひょうひょうとは縁遠いやぼなのかもしれない。

  10. @足立らどみ
    先に行こうとする足をなんとかしないと(切り取るなどして)、ひょうひょうとなれないのですかね。まだ足はそのままでよいかな。

    止まる足 ひょうひょうならぬ往生か

  11. @野鳥倶楽部
    彼らは地球の上では同胞で、日本の中では賛否の的で、地方ではかたきだったり敬うものだったりただの隣人だったり。

    今となってはここでも敵でしょうか。敵であり糧であり。
    ただ憎くはない。特に糧ならば。
    ここに埋めるのは熊でも人間でもない僕の(人間ですが)嫌がらせです。
    世界の歪みはここでは生活です。

    アワダチソウは全国区ではアキノキリンソウというそうです。秋の、というわりに夏まっさかりからあちこちで見ます。外来のセイタカアワダチソウのようにほんとは見上げるほどにはならないのだけど、草刈りのためかがんだりしゃがんだりしてるとやはり黄色の世界になります。
    手向けた花はハンゴンソウかもしれない。似た黄色い花ですけど僕好きなんですよ。とても苦いけど。
    ありがとうございます。

  12. @たかぼ
    物々交換が経済の基盤みたいなこのあたりのオジイやオバアら案外ひょうひょうとしてるもんです。まあガハハと笑うしわくちゃがひょうひょうかというと悩んじゃうけど。
    なるほど風呂を磨くというのは只管打坐に通ずるかもしれないですね。
    とすると求めるのはひょうひょうというより解脱の境地か。
    僕は世間でいうストレスというものには鈍いほうの気がしますが、抱えたときは飲むにかぎります。ひょうひょうじゃないな。そしてたしかに祈りはリセットへのスイッチとしてなのかなと考えました。
    たかぼさんの視点はおもしろいですな。ありがとうございます。

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