水位
いつからだろう。
テーブルの上のグラスに、縁いっぱいの水を注がなくなったのは。
八分目まで注がれた水面は、決して外を映そうとしない。
ただ静かに、部屋の明かりを宿している。
昔、祖父はいつもグラスの縁まで、なみなみと日本酒を注いでいた。
表面張力で盛り上がった酒は、ひとつの宇宙のように見えた。
「こぼれちゃうよ」と母が言うと、「これがいいんだ」と笑っていた。
祖父が亡くなり、家のグラスから宇宙が消えた。
誰も酒や水をこぼさなくなった。テーブルの染みも増えなくなった。
私たちは上手に、慎重に生きている。
そしていつの間にか、失うことに、少し臆病になった。
今でも、水を飲むたびに思い出す。
グラスの縁で揺れていた、あの小さな宇宙を。
こぼれることを恐れなかった、祖父の手を。
私の心の水位は、いつも八分目のままだ。
静かで、安全で、けれど少しだけ渇いている。
窓の外で、あの頃と同じ雲が流れていく。
コメント
”家のグラスから宇宙が消えた” 特に好きです。
とてもすてきです。
なんだか胸がいっぱいになる温かで、広い宇宙の詩ですね。