戦ぎ
桜の花びらが散って
しばらくした日の
葉桜が青やかにして
光る風に戦いでいる。
自室の窓から見えるその
葉桜から目をはなし
木製の円卓にある
コーヒーカップを手にとり
このなかのインスタントコーヒーを
ふたくち頂いた。私の
平穏なひととき
この世のなかでは いろいろなことが起きている
あの人は
ずっとまえに
目覚めることのない眠りについた。
あの人の体は火葬されて、
骨以外は
お空へと行った。
あの人の時間はそれで
終わりに見えた
さまざまな人と
どの道別れることになる
別れが早いか遅いか
それだけのことね。
みんなへ ありがとう
光る風からこちらを見ている
なにものかのささやきが私の影に映り
さまざまに戦ぐ私の影
コメント
@あああさんへ
この詩を読んでくれて、この詩からやさしい気持ちになってくれたことをうれしく貴重に思います。そのお気持ちをこうして伝えてくれたことも ありがたいです。
こちらこそありがとうございます
メンション機能は、@ の名前の後に何か付け足したらリンクが反映されないのか。今度から気を付けます。拝礼
終わりから2連目。そうなんですよね。若い頃には考えもしなかったこと。こんな歳になってようやく気が付くのです。
そしてこの連の最後一行。この境地にはまだ至れない未熟者です…。
@BENI
さんへ
はい、そうなんですよねぇ。でも私の場合は私の若い頃に兄弟を亡くしているので、その頃から死などについて考えるようになったのだと思います。
うん。みんなへ ありがとう というのは、その時その時に思うこと。そりゃあ色々とあります。ありますけど、私が今こうして居られるのは、いいも悪いもさまざまな意味でみんな(全て)の「おかげ」。たとえ悪でも、悪は私の悪を肯定しているというのもあります。もちろん、悪は悪いことですから、いけないことですけどね。なので、時々思うことは、さまざまな存在に さまざまに支えられている私、ということです。
未熟という意味では、私は永遠に至ることが出来ない未熟者ですが。うん。
でもBENIさんがこうしてお話をしてくれて ありがたく貴重に思います。ありがとうございます。
@BENI
さんへ あ、でも、自分の一日が終わって布団の中に入って休む直前に手を合わせて目をつむって、「神さん仏さんみなさま、今日も一日ありがとうございました。今日もこうしてお休みできます。ありがとうございます みなさまおやすみなさい、またね」という挨拶を毎夜しています。このおやすみの挨拶をするようになって10年近く経ったかな。ん、別に特定の宗教などを信仰などはしてないんですけどね。ふふ。一日を何とか終えられただけでも ありがたいですから。昼間などにいろいろとあってもですね。うん。
BENIさん、では おやすみなさい。BENIさんありがとうさま。またね。
最終練が表現としても生きる所作としてもとても美しいものだと感じました。
@あぶくも
さんへ ああ、あぶくもさんがそう言ってくれて ありがたく貴重に思います。ありがとうございます。
うん、タイトルの「戦ぎ」と最終連が呼応するように書いています。
ああ、とても美しいとのご感想 こころに沁みます。
@こしごえ
さん 俺は眠る前に「明日も目覚められますように」と願って寝ます。歳をとる毎に、生きることへの執着が強くなっていきます…。
@イチカワナツコ
さんへ ああ、イチカワさんが一連目を読んでそこからその情景を思い描いてくれたことをありがたく貴重に思います。うれしい、ありがとうございます。
ああ、そうなのですね。コーヒーも好きとか苦手とかって分かれるようですね。
ちなみに、私はコーヒーも紅茶も砂糖とミルクは入れないでストレートで飲むのが好きです。ふふ。
@BENI
さんへ そうそう、BENIさんが教えてくれた眠る前の言葉は、私の場合「またね」と言っています。
生きることへの執着というのは、ある面から言えば、すてきなことだと思います。生きるってすてきなことだと思いますからね。まぁ、人にはそれぞれ いろいろとあるでしょうけどね。うん。
“別れが早いか遅いか
それだけのことね”
思える段階まで人生を極められたらいいです。
言葉たちの佇まいがとても素敵。
@たちばなまこと
さんへ うん。別れというのは、それが必ずしも死別だけとは限りませんね。たとえば、縁を切られたり切ったりしての別れですね。
うーん。私の場合、全ての死においてではありませんが、(自分の死は特に)死について どちらかと言えば肯定的なんですよね。死ぬことは悪いことじゃなくて、自然なことというね。生きている限り生物である限り、死は絶対に訪れる自然なことというですね。
その上でこう思います。死んだ後のその死んだ存在の世界は誰にも わかりませんよね。でも、思うことは自由のはずではないでしょうか?
ならば、(ヒトに限らず)死んだ存在の魂(魂というモノがあるとしたら)は、体から解放されて自由になる。ヒトが勝手に(ある意味自由に)考えて決めた宗教の死後の世界はヒトが勝手に決めたこと。私はそういうのに縛られたくありません。死後の世界はもっと魂が自由であってほしいし、そうなのではないかなぁと「思って(想像して)いる」。
それに、死後の世界とこの世の世界はつながっていると「(勝手に)思います」。その方がすてきでしょ?^^
こんなことを言うとおかしなことになるかもしれませんが、実際、私はふしぎなことを何度も経験している。ふふ。
話を元につなげると。
別れとかって、見た目だけの話なんではないでしょうか。私達と宇宙はつながっている。さまざまな存在はこの宇宙の一部ですね。別れは悲しいけれど。みんなが一緒だと思えばいいのかも。
たちばなさんが、別れについて すてきに思えるようになれば すてき。
たちばなさんがこの詩の言葉たちの佇まいがとても素敵と言ってくれてありがたく貴重に思います。うれしい、ありがとうございます。
「そよぐ」を「戦ぐ」と書くこと、初めて知りました。詩の中では「あの人」の死について書かれています。もしかしたら、死も、今生きている私たちにとっても、真摯な戦い、もしくは闘いなのかな、などと思ってみました。
それを踏まえて一連目を読み返すと、穏やかな描写が気持ちに沁みてきます。
@長谷川 忍
さんへ 「そよぐ」というのを「戦ぐ」と書くのをどうして私が知ったのかは覚えていません。でも、何か知るキッカケがあったのは確かでしょう。
そうですねぇ、うん。長谷川さんの思ってくれた通り、私たちは生死の真摯なたたかいをしているのかもしれませんね。そう考えると、どんな人も「その人なりに」一所懸命生きているのでしょうね。
長谷川さんがそう思って一連目を読んでくれて、そういうふうに感じてくれて、ありがたく貴重に思います。ありがとうございます。