記憶街Ⅱ
視線はただ日々と記憶の隙間に巣食う
眼で辿った先が現実などと誰が決めた
日々は古い映像機からも抜け切れない
もしくは個性という独りよがりの集積
何食わぬ視線を無意識の街に浮かべる
非常階段に佇む一人の老婆を想像する
私は流浪していく淡い背景にすぎない
老婆には私が見えにくいし憂慮もない
彼女の視線は無数の匿名の眼と交わる
その眼が私自身の視線に被さってくる
社会は虚も実も綯い交ぜになった幻だ
時間が一瞬ごとに残滓を未来へと葬る
眼で辿った先が現実などと誰が決めた
記憶から人々の膿む陋巷へ降りていく。
コメント
久し振りに、定型的な詩を書いてみました。以前投稿した「記憶街」の続編になります。
きれいごとだけではない、複雑に織り成されたこの世を思います。長谷川さんが書いたこの詩の それがきっと本当の「世界」なんだろうと思える説得力が この詩にはあります。
この詩の 老婆 がいい味を出している。
社会は虚も実も綯い交ぜになった幻だ
時間が一瞬ごとに残滓を未来へと葬る
とこの2行が特に好きです。
長谷川さんの、こういう切り口の詩も味わい深くて好きです。
「記憶術」もよんでみて自分のコメント探したら、、
載ってなかったです^^;。どうせコメントしていると
思ったのですが載っていなかったのは記憶って曖昧、
そしていつの間にか長谷川忍さんとの距離も近づいてた。
読み手として思うに、記憶術に対なすのは検索術。
学生のときの手あかのついた字書にとてもよく似ている。
しかし違うのはGoogle検索だうんぬんに騙されないで、
ボケているわけではなくて、注文もしていないのに、
念じただけで欲しい情報が手に入る(ときには現物として)感覚。
或いは、たぶん禁術なのに、繰り返される生きた人を召喚する力❗️
記憶術は秘伝を正に伝えていて記憶術IIではさらに補完している、
詩を芸術や文学としてだけではとらえてはいけない
今、失われつつある大切な世界で次に残しておきたいたぶん技術
でもあるのになぁと、そのへんを読み手に伝えたいのだろうなぁ
と、いうのが、読み手の私の今回の感想です。
ああ、記憶街IIだ。記憶街、まだの方はコチラをどうぞ。
https://poet.jp/photo/716/
さて、今回も長谷川さんのニヒリズム側面が色濃く反映されたような大好きな世界観でした。やはり我々は幾重にも織り重なった世界で時間や空間や自己を生きているのですよね。時折、存在が小さく消えてしまうほどの絶対的孤独や寂寥に苛まれることもありますが、そういったことすらも全肯定できるような力を感じます。
見たり、見られたり
他人の視線で見たり、自分の視線で見られたり
私は視線にかかわる病に成りかけたまま歳を重ねてしまい
いまだに「見る」という行為がよく分かりません。
この詩に触れた時、そんな長年の靄がうっすらと晴れていくような気がしました。
@こしごえ
こしごえさん、世の中は、現実と虚構が絡み合っているのかな、と思います。人は、基本、現実を生きていますが、実は、その人がそう思っているだけで、内実は、虚構かもしれない。長谷川という存在も、けっこう虚構を孕んでいます。老婆も、そのような存在として入れ込んでみました。丁寧に読んでくださり、嬉しいです。
@足立らどみ
足立さん、詩を芸術や文学としてだけではとらえてはいけない。これはよくわかります。もちろん、文学であり芸術ですが、詩は、他の文芸ジャンルから、少し、ずれているのかな、とも思います。そのずれ具合が「詩」なのでしょう。この詩では記憶にこだわってみました。記憶は、当人の現実であり、虚でもあります。…願望であるかもしれない。
@あぶくも
あぶくもさん、「記憶街」、貼っていただきありがとうございます。m(–)m
続編を書いてみたくなりました。
そうなんです。
人は一筋縄ではいかない。いろいろなものが綯い交ぜになって、どろどろになって、現実があります。虚も引きずっていますね。ゆえの孤独かもしれません。現実に迷った時、詩を書きますし、虚構に浮かんでしまった時、詩を書きます。…で、時々、ごっちゃになります。でも、何とかバランスをとって生きています。…上手く言えないのですが。
@nonya
nonyaさん、私自身の視線がどこを向いているのか、あらためて考えてみると、不安が募ります。その人の視線の先が、その人の「詩」なのでしょう。nonyaさんは、写真を通して、世の中を、独自のアングルで見ていらっしゃる。nonyaさんの詩も、お写真も、私は好きですよ。