希望
子供たちはいつも希望を背負わされ
すさぶ丘を登っていく
ある種の言い訳と
信託された涙と
鼻と口を塞いだごみの山と
しらじらと明けるネットの中で
子供たちは明日を探す
空っぽの手で
大人たちはさもあたりまえと
なにもせず週末を過ごす
もう飲み込まれたものが
失ってしまったものが
失い続けているものすらも
遠い過去のように
意味も無かったかのように
なにも手渡すものはないのか
背負わせるだけで?
子供たちはいつも希望を背負わされ
すさぶ丘を登っていく
ある種の言い訳と
信託された涙と
鼻と口を塞いだごみの山と
しらじらと明けるネットの中で
子供たちは明日を探す
空っぽの手で
大人たちはさもあたりまえと
なにもせず週末を過ごす
もう飲み込まれたものが
失ってしまったものが
失い続けているものすらも
遠い過去のように
意味も無かったかのように
なにも手渡すものはないのか
背負わせるだけで?
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コメント
なかなか難しい詩でした。希望は、とても素晴らしいものとして了解されている言葉だと思うからです。希望って何だろう、と考えることがあります。そこで得た私の結論は、希望とは未来の別名だろうというものです(狭義には望ましい未来)。ですから、希望が無いとは未来が無いと同義。たとえば死亡する直前は自分自身に希望は無いとか、それこそ巨大隕石が地球に衝突しようとしている直前には人類全体に希望が無いと考えられます。そこでこの詩ですが、一連目の解釈が難しい。これが解釈できれば全体が理解できそうです。子供たちがいつも希望を背負わされるとあります。希望(良い未来)を背負うのは結構なことじゃないか、と解釈すると、すさぶ丘を登っていくというマイナスイメージに結び付かないのです。しかし後半で大人たちの怠惰が指摘されているところを見ると、なるほど大人たちは良い未来(希望)をつくる責任を子供に押し付けているのだなと解釈できます。ここで私が連想したのは例えば原発です。10万年は管理しないといけないという核のゴミの解決なしに原発利用はあり得ないと私は思っているので、まさに現在の大人たちの良き未来のために子々孫々にゴミを押し付けるのは愚行そのものであると言えましょう。
希望は「未来」。未来だから実現していない、かつ「実現したらいいなと思うことそれ自体」を含んでいるイメージだから「背負わせる」と表現されているのかなあ。一方で、最後の「手渡す」は目の前にある「今」であったり、確かに約束できる「実現可能な手触り感のある未来」というイメージで読みました。とても沁みました。
たかぼさん、ありがとうございます。
例えば、震災直後に生まれた子供たちは希望の子供たちと呼ばれ新聞でもそう書かれました。彼らはただそれだけで生まれながらに何かの象徴とされます。そして子供たちはそのように振舞います。強く明るく。
グレることもできないね。
希望とは託すものですが、その託す側はただ託すだけでいいのでしょうか。
これも例えばですが、僕の住むあたりはある大臣さんの選挙区です。地元の名士。
もうそれだけで希望への論議は薄れているようです。希望の為ではなくしがらみで。もしくは色々な不満を抱えながらも、選挙にいってもお大尽様がおるから無駄やなと。投票率は低いようです。いらないぎすぎすもしたくないしね。
震災後長くなにもされなかった地域は今やなにもありません。
この先もそうなのかという子供たちの声に、大人たちは何も言いません。
言えないのです。気まずいのか、もしくは無思慮だから。
言えない自分にいらだち、ひどいときはその希望にすらネグレクト。
希望は背負っても、背負わせてはあかんですね。
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あぶくもさん、ありがとうございます。
希望は、実現したらいいなと思う未来ですよね。
自らの磔台を背負いゴルゴダの丘を登る男は後の信者にとっては希望でしかない。現代でもそうなのでしょう、みな彼を希望をもって祈り讃える。
それを一身に受ける彼自身は希望をもって茨の冠をかぶったのでしょうか。まぁそれは僕にはわかりません。想像してみただけ。
でも僕はなにごともギブ アンド テイク、もしくはそうじゃなきゃただただ惜しみなく与える、が理想です。”託す前に与えよ”がわが神(なのか?)の教え。
子供たちの希望じゃなくて、希望の子供たち、背負わされた希望ならばそれに見合うものを託す側がまずは与えるべきだと思うのです。
まぁゴルゴダの彼は一心に祈られ、語られるだけギブ アンド テイクされているのかもしれないけれど。
さて、週末は選挙です。
選挙とは好き嫌いを決めるでも、未来を決定することでもないと思います。
考えるチャンスですよね。希望が実際なんなのか、何を託すのか、それを託すために何ができるか。選ぶより前にそれを熟慮することこそ、未来を語るための義務だと思います。
いつの世も子供たちは希望です。
しかし託す前にすべきことは多い。
選挙じゃなくても希望に対し熟慮すらせぬものが希望を託すというのは、とても気持ちの悪いことだなぁと思ったんです。
いつもいつも希望を持つのはやってからだ、というのは我が家の家訓です。うそですけど。
二連目と三連目を、幾度か繰り返し読み、そして、一連目と最終連目を読みました。…はたと考え込んでしまいました。子供にとっての希望とは、何なのだろう? 今も考えています。手渡すものはないのか、というフレーズに救われつつも、疑問はまだ解けていません。
なるほど、子供は子たる神イエス、背負わされる希望は十字架、すさぶ丘はゴルゴダのメタファーになっているのですね! 震災後の子供たちをそのように喩えたのですね。すっきりしました。
長谷川さん
ありがとうございます。繰り返し読み、なんて嬉しいです。
子供たちの希望はやはり子供たちに探しみつけて欲しい。そして大人たちはその為に地ならしをして子供たちの立つ場を残すことが、つなげるということだろうなと思います。
大人は大人で子供に背負わせず、自らやってけばいい。
たかぼさん
まぁ一つのイメージですけどねぇ。
見て触れて嗅いで打ちひしがれた者のとても繊細な。治りかけの皮膚が何度も破られ、かたいところとやわらかいところが集まっていて、触れると痛いんだろうなと思わせる。
子どもたちのそれら、一緒に背負ってあげられるかな。
たちばなさん
返信遅くなっちゃった。なんでもギブアンドテイクだと思うんですよね。子供でも大人でも。子供にギブアンドテイクって何言ってんのって感じか。もちろん無償の愛ってある。大人がそれを相手に求めちゃいけないよね。