空っぽ
青空にぽっかりと
雲が浮かんでいる
どこを見るともなしに
宙をぼんやり 見つめていると
空っぽの自分のこころに気付く時がある
空っぽだ
けれど こころに
何も無い時というのは
かえって気楽ではなかろうか
お日さまに雲がすこしかかり
雲が光っている
私は普段
こころに余計な物事を
持ちすぎているような気がする
そよ風が肌をなぜていく
風は光り そよそよと言う
青空にぽっかりと
雲が浮かんでいる。
目をつむり 自分のこころを見つめる
このこころがあるということの
この奇跡に
空っぽのこころが満ちていき光り始める
コメント
街の散策が好きで、あちこち歩いています。歩いている時、ちょうどこのお作品のような感じですね。こころを解放させるというのか、…こころを見つめているのでしょう。
長谷川さんへ 長谷川さんは街歩きして すてきですね。昔、私も散歩が趣味でした。私の住んでいる家は山の近くの田舎の村にありますが、町まで片道1時間半(?)位掛けて何度か歩いて行ったこともあります。
そうですよね、言われてみれば、歩いている時ってこころが解放されているような感じですかね。長谷川さんの言ってくれているように歩くという行為は、こころを見つめるのに最適なのでしょうね。
長谷川さん、すてきなコメントをありがとうございます。
自分や自分の心を思って『空っぽ』に到達した時が自分にもあったなぁと思い出しながらシンパシーを感じながら読みました。
座禅やヨガだけが瞑想ではなくて、お散歩やジョギングも実は本質は瞑想に近いのだなと最近感じます。
詩と関係のないことを書いているようですが、僕にとってはこしごえさんのこの詩がそういう風に良く作用しました。
あぶくもさんへ まず、あぶくもさんが、この詩にコメントをくれたことを貴重に思います。
ああ、あぶくもさんにも、『空っぽ』になる時があったのですね。うん、そういう空っぽになる時って、もしかしたら誰にでもあるのかもしれませんね。
はい、そうかも、あぶくもさんの言う通りで、座禅など以外にも そういう瞑想みたいな働きがあるのだということは あるのかもしれませんね。うん。
いえいえ、この詩から あぶくもさんが自由に思い出したり感じたりして思ってくれて、あぶくもさんに この詩が良く作用したことをうれしく思います。
あぶくもさん、すてきなコメントをありがとうございます。
同じ空っぽでも、器が大きいのかもしれないなと。満たされるといいなと願います。
たちばなさんへ まず、たちばなさんがそう願ってくれて、貴重に思います。そのお心づかいに たいへん感謝します。ありがとうございます。
うん、私のその時の空っぽのこころは宇宙のようには広く大きくはないと思います。私の胸は小さい小さい牛乳瓶のようなものではなかろうかと今の今思いました^^;
でも、そうですねぇ、その時の空っぽのこころというのは、中身が無いということである意味自由な状態です。
そして、常にではありませんが、基本的に私は満たされている。今、こうして存在できていることに感謝をしています。私の好きな言葉(あくまでも「好き」な「言葉」)に「足るを知る」というのがあります。これはたしかお坊さんの言葉。あと、「ありがたい」というのが私の口ぐせです。ふふ。ああ。うん。
まあしかし、こころは基本的には流動的なものですね。その時その時に異なる状態ですね。なので、たちばなさんが願ってくれた通り、その時その時に満たされていれば すてき。
これらのことを思わせてくれた たちばなさんへ重ねて感謝します。ありがたい♪^^