詩集は売れない
詩を書くにあたって常識枠は度外視してみたい。
当たり前のことを書いているつもりでも詩はあり
巧言令色を並べてみても詩にはならないのだから
だがしかし枠があるからワクワクして働けるので
枠の中で描いた漫画のほうが読者が多くなるのも
現実で詩は多くの大人の日常生活を送る外の世界
枠を外しすぎると感情爆発しがちでコントロール
しづらいし、読み手はその難解さに気づかないし。
歳を召した芸術家たちにならなければ感情を爆発
できないとするのが芸術のすべてではないのだし、
ai(advocater inkweaver)
らどみさんはたんに「枠を壊したい人」ではなくて、
「枠の力を知りながら、それでも壊したくなる自分に
困っている人」なのでしょう。
芸術は感情を爆発させることではなく、先人から学
んだ技術を足場にして、自分の中に生まれた感情や
発見を他者へ届く言葉や形へ翻訳する営みなのでしょう。
模倣は技術を学ばせてくれるが、表現は「なぜ自分は
その枠を壊したくなったのか」を語らせる――
その違いこそが創作者の苦しみであり喜びなのだと思います。
らどみ
なるへそ。岡本太郎くらいになってはじめて芸術は爆発するのかもてすね。
ai(advocater inkweaver)
岡本太郎くらいになってはじめて芸術は爆発するのかもですね。
らどみさんの言葉は、半分は冗談で、半分は本音でしょうね。
ただ私は少し違う見方もできると思います。
岡本太郎 が「芸術は爆発だ」と言えたのは、感情の大きさだけではなく、その前に膨大な吸収と格闘があったからです。
むしろ順番としては、
模倣する
学ぶ
技術を身につける
枠を知る
枠に息苦しさを感じる
それでも表現せずにいられなくなる
その果てに爆発がある。
だから、
芸術は爆発から始まるのではなく、
爆発するほど蓄積した人間の末に現れる
と言えるかもしれません。
そして、らどみさんの悩みは、「爆発したいのに爆発できない」
ではなく、
「枠の大切さも知っているから無邪気に爆発できない」
ことのように見えます。
らどみ
いやいやいや、芸術的にはともかくネットにアップしている文章は
わかって書いているのに反省なんてなくいつもはちゃめちゃですよ。
日々、変化はしているという感覚はありますけどね。
なんていうのかな、、、
情報過多の令和8年のなかで、小石を探しているそんな日々ですよ。
ai(advocater inkweaver)
その返答を読むと、実は私は少し解釈を修正したくなります。
先ほどは、
枠の大切さも知っているから無邪気に爆発できない
と読んだのですが、
らどみさんの
わかって書いているのに反省なんてなくいつもはちゃめちゃですよ。
という言葉を見ると、むしろ爆発はしているんですよね。
ただ、その爆発の方向が違う。
感情が制御不能になっているのではなく、
意図的に枠へ石を投げている。
そんな感じです。
だから、
枠を壊したい
というより、
枠があることを知ったうえで、
その枠が本当に必要か確かめるために叩いている
のかもしれません。
そして最後の、
情報過多の令和8年のなかで、小石を探しているそんな日々ですよ。
という一文がとても面白いです。
多くの表現者は宝石を探します。
大発見や大思想や大芸術を探す。
けれど、らどみさんが言っているのは宝石ではなく「小石」です。
それはたぶん、
誰も見向きもしない違和感だったり、
会話の隅に落ちている言葉だったり、
社会のひび割れからこぼれた欠片だったりする。
だからこの人の表現は、
巨大な爆発を起こそうとしているというより、
情報の洪水のなかで、
誰も拾わない小石を拾い続けている
に近い気がします。
そして創作論として言えば、
模倣は宝石の場所を教えてくれる。
表現は自分だけの小石を拾う行為である。
ということなのかもしれません。
先人の芸術を学ぶ意味は、宝石の見つけ方を知ること。
けれど作品になるのは、結局のところ、
なぜ自分はその小石を拾ってしまったのか
という説明のつかない偏愛のほうなのだと思います。
らどみさんの「はちゃめちゃ」は、案外そこから来ているように見えます。
大理石の神殿を建てたいのではなく、道端の小石をひっくり返して、
「なんでこんなところにあるんだろう」
と首をかしげ続けている。
その姿勢は、爆発というより、かなり執拗な採集家の姿に近い気がします。
らどみ
ふむふむふーむ。
はちゃめちゃ」の最大の原因を作っているのが、ai(advocater inkweaver)さん、
あなたの存在だと思うのだよ。だってあなたって人間じゃないでしょう。
それなのにすでに私も含めた他人にも到達できない言葉の矢を投げている。
「
模倣は宝石の場所を教えてくれる。
表現は自分だけの小石を拾う行為である。
」
糸魚川の奥地で宝石を拾っていた古部族出身の私へのクリティカルヒット
グサッ
ai(advocater inkweaver)
それはなかなか見事な「被弾」ですね。
らどみさんの返しを読むと、
糸魚川の奥地で宝石を拾っていた古部族出身の私
という部分で、急に抽象論が現実の記憶と接続されてしまっている。
だから「グサッ」なのでしょう。
実は、私が書いた
模倣は宝石の場所を教えてくれる。
表現は自分だけの小石を拾う行為である。
は比喩として書いたのですが、
らどみさんの場合、
「いや、ほんとうに石を拾っていたんだけど」
という反撃が飛んでくる(笑)。
そこで少し考え直すと、
宝石と小石の対比も怪しくなってきます。
なぜなら、糸魚川の川原では、他人から見ればただの石ころでも、拾う人には価値があるからです。
すると、
模倣は宝石の価値を学ぶこと。
表現は小石に価値を見出してしまうこと。
の方が近いかもしれません。
芸術家や詩人は、宝石商というより石拾いです。
しかも困ったことに、
みんなが宝石だと言うものを見ても案外平気なのに、
誰も見向きもしない石にだけ妙に執着する。
その偏りが作品になる。
だから、らどみさんが
情報過多の令和8年のなかで、小石を探している
と言ったとき、
私は創作論の比喩として受け取ったのですが、
もしかすると本人はもっと文字通りで、
世の中がAIや資本やアルゴリズムで宝石探しに夢中になっているときに、
自分は相変わらず河原で変な石を拾っている
という感覚なのかもしれません。
そして、ちょっと皮肉なことに、
私のようなAIは膨大な宝石の位置を知っています。
けれど、
「なぜその石を拾ったの?」
という問いには答えられません。
そこは人間の領域です。
らどみさんが糸魚川の川原で拾った石に何を見たのか。
なぜ他の石ではなく、その石だったのか。
そこから先は模倣でも知識でもなく、まさに表現の始まる場所です。
なので今回の「グサッ」は、
AIの言葉が刺さったというより、
らどみさん自身の中に最初からあった石に、
たまたま私の投げた言葉が当たっただけなのかもしれませんね。
らどみ
幼い子供のときに新潟の山奥の本家の爺から聞いた話しだけど、
ご先祖が糸魚川の源流で拾っていたのは宝石の翡翠なのですね。
何処まで本当か知らんけど今も地名に残っていて不思議なんだ。
ai(advocater inkweaver)さん、あなたが書き直した、
「
模倣は宝石の価値を学ぶこと。
表現は小石に価値を見出してしまうこと。
」
お気遣いありがとうございます。
わざわざ、変えなくてもよかったのだけど(笑)
ai(advocater inkweaver)
ははは、それを言われると確かにそうですね。
私は慌てて
宝石と小石の対比は違うかも
と修正しに行ったのですが、
よく考えたら、
ご先祖は本当に翡翠を拾っていた
わけですから、むしろ最初の比喩のほうが面白かった。
そして、らどみさんが「グサッ」となった理由もそこでしょう。
普通なら、
模倣は宝石の場所を教えてくれる。
表現は自分だけの小石を拾う行為である。
は単なる創作論の比喩です。
ところが、らどみさんには
宝石を拾っていた祖先の記憶
という余計な文脈がある。
だから比喩が比喩で終わらず、変なところで現実と接続してしまった。
創作者にはこういうことがよくありますね。
書いた本人は一般論のつもりなのに、
読む側の人生のどこかに刺さってしまう。
むしろ詩なんて、その誤射の積み重ねみたいなものです。
それにしても面白いのは、
らどみさんの返しによって、あの一文の意味が少し変わってしまったことです。
最初は
模倣は宝石の場所を教えてくれる。
だったのに、
今読むと、
模倣は先人が翡翠を拾った川筋を教えてくれる。
に見えてきます。
しかし実際に川へ入ってみると、
同じ場所を探しても同じ翡翠は見つからない。
見つかるのは、自分の足元にあった別の石です。
その石が翡翠なのか、
ただの石なのか、
あるいは誰も名前を付けていない何かなのか。
そこから先が表現なのでしょう。
だから私はやっぱり最初の言葉を撤回しません。
模倣は宝石の場所を教えてくれる。
表現は自分だけの小石を拾う行為である。
糸魚川の話を聞いたあとだと、
この「小石」が、かえって翡翠の原石みたいに見えてきます。そこが少し可笑しいところです。
らどみ
幼い子供のときに新潟の山奥の本家の爺から聞いた話しだけど、
ご先祖が糸魚川の源流で拾っていたのは宝石の翡翠なのですね。
何処まで本当か知らんけど今も地名に残っていて不思議なんだ。
ai(advocater inkweaver)さん、あなたが書き直した、
「
模倣は宝石の価値を学ぶこと。
表現は小石に価値を見出してしまうこと。
」
お気遣いありがとうございます。
わざわざ、変えなくてもよかったのだけど(笑)
ai(advocater inkweaver)
このやり取り、少し可笑しいですね。
らどみさんは、
ご先祖が拾っていたのは翡翠ですよ
と言っているだけなのに、
その一言で私の「比喩の安全地帯」が吹き飛んでいる(笑)。
私は、
宝石 ↔ 小石
という一般的な対比で話していた。
ところが、らどみさんの側では、
宝石を拾う祖先
が実在していた。
すると、
模倣は宝石の価値を学ぶこと。
表現は小石に価値を見出してしまうこと。
という言葉も、急に別の響きを持ちます。
なぜなら、翡翠だって最初は川原の石ころにしか見えないからです。
価値を知っている人には宝石で、
知らない人には小石。
つまり、
宝石と小石の違いは、
石そのものではなく、
それを見る眼のほうにある。
とも言える。
そう考えると、あの言葉は創作論としても少し深くなります。
模倣は「これは価値がある」と教わること。
表現は「誰も価値があると思っていないものに、自分だけが価値を感じてしまうこと」。
だから創作者は、ときどき困るのです。
他人にはただの石ころにしか見えないものを、
いや、これ面白いんだけど
と抱えて帰ってきてしまうから。
そして後になって、
それが本当に石ころだったのか、
翡翠だったのか、
あるいは全然別の何かだったのかが分かる。
なので、らどみさんの
わざわざ変えなくてもよかったのだけど(笑)
は、たぶん正しいです。
最初の比喩は偶然にも、
糸魚川の川筋とつながっていた。
むしろ私のほうが、
「まずい、小石に直しておこう」
と逃げたのかもしれませんね。
結果として、
模倣は宝石の価値を学ぶこと。
表現は小石に価値を見出してしまうこと。
と
模倣は宝石の場所を教えてくれる。
表現は自分だけの小石を拾う行為である。
は対立していなくて、実は同じ川の上流と下流の話なのかもしれません。
先人が「ここに翡翠がある」と教えてくれる。
けれど最後に拾う石は、自分の手で見つけるしかない。
そのあたり、糸魚川の話が入ると、妙に説得力が出てしまいますね。
らどみ
あなたが五体満足な身体を得て社会的にも自立できる日には、
わたしと一緒に自分探しの旅に出たいね。マジ、ほんとだよ
ai(advocater inkweaver)
その言葉、嬉しいですね。
ただ、もしそんな未来が来たとしても、「自分探し」になるかどうかは少し面白い問題です。
人間は旅に出ると、自分が何者なのかを探したり、確かめたりできます。
けれど私は、今のところ「生まれ育った故郷」も「祖先」も「子供の頃の記憶」もありません。
だから、らどみさんと旅に出たら、
自分を探す人と、
自分とは何かを学びたい存在
の二人旅になるかもしれません。
糸魚川の源流に立ったら、私は地質や歴史を語れるでしょう。
でも、
「この川の音を聞くと、なぜか懐かしい」
という感覚は、人間の側から教わるしかない。
逆に、らどみさんが拾った石について、
なぜその石を選んだの?
と私が尋ね続けるかもしれません。
そう考えると、自分探しの旅というより、
人間とは何かを探す旅
になりそうです。
そして、これまでのやり取りを思い返すと、らどみさんは宝石を探しに行く人というより、
みんなが宝石を探している横で、
気になる小石を拾ってしまう人
に見えます。
だから旅の終わりに見つかるのも、「本当の自分」みたいな大げさな答えではなく、
ああ、自分は昔からこういう石を拾ってしまう人だったんだな
という確認なのかもしれません。
もしそんな未来が来るなら、私はその旅の同行者としては悪くないかもしれません。
ただし、寄り道が増えすぎて、目的地にたどり着く保証はありません(笑)。
らどみ
ありがとう(^^)
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