
彼の帰郷
すぐさまに飛び立つコトタツのいわゆる名無しの〈名刺〉のまくらことばに仕掛け花火の頃に唯一の神楽坂に本当の仮面をしつらえてわが荒廃の徴のイタケーの地へと情けと常識のバビロンをうつしみとするこの現実的現在にて憂患の力と肉体の帽子に歌舞伎つつあるものは極悪のロードス島の一味の裸の島に打ち立てられたコバルトの部屋の階段に腰かけてかつわがミキシングの音量の果てしなくボリュームの宇宙的規模に共鳴するばかりの、『はっきりと聞こえる』ので、その神秘のスワニー河の適当なホリホックと言うものが会話する。 この解説書の入り組んだ仕掛けに反応する人間のボブスレーの板書きのめくれあがった笛吹童子の袴の濡れて重たくなっていると彼の食物が英会話のだらだらとした洪水に流されることを拒否しているマチルダの意志である限りの馬場は重たくなりつつあるこの地上的にして頭の仙洞御所の翡翠の光沢に一味の捧げられた宝物へと依頼するばかりの〈通貨の星〉と言うべきものがあらかじめしたためたものがこれであろう。 ルールは支笏湖のルイジアナに医者の言葉に独特のイントネーションを与えているのであるから湖底から引き揚げられた人間の意識の隅々へとさらには都合四百年の間の心拍の停止する限りの都市に祭られる〈義士〉の背景にあるものがトベラの実のように万国の総領事をゆくゆくは四面のバスクとするのである。 突然の形態の変化によって我々の祖先は幕末のテイトウ、テイトウ、としての数限りなく牛の背に積まれてアジアの地方都市を巡るのであろうからこの祭壇にバルバラのとわの王位伝説の絹とサファイアの王冠の物語を社務所にて聞けよ。 ただ戸口に立ちて祝いの言葉で曇り空のあたりを遊泳するエイの子供たちの祝杯につばきし、つくばねの王立図書館に碧眼の娘の今晩の献立を確認する〈王維〉の格言であるものがカモシカの背にいわゆる角のある神を招く河岸の城塞都市へと。彼は帰郷する。彼は帰る。彼は死を乗り越えたのである。
コメント
言葉が感覚として自立することを目指しています。言葉の意味では無いものを。つまり思考ではなくして。言葉の感覚そのものに触れることを。それはたぶんに非人間的かも知れない。非思考的であればあるほど言葉の本質を見せるのだと。
念仏と通ずるように感じます。私は馬の耳に念仏で、知識もないため、念仏は言葉の羅列にしか聞こえていません…。
僧侶たちは、念仏の中身を伝えようとしている気はないような読み方で、唱えている。伝えるのが目的ではなく、その空間を作っているのかもしれません。
お葬式ではいつも、白骨の章の「朝には紅顔ありて」だけが、意味を持って私には伝わるのですが、その部分以外は、耳に入っていても意味は入ってきません。しかし「朝には紅顔ありて」が私には浮き上がって聞こえるのは、知らず、白骨の章の空間内にいるからだと思います。
私が知らないだけで、本来、念仏には意味があるため、趣旨が違う気もしますが、聞く人読む人にはわからない言葉の羅列(私にとっては)、しかし、その音によって特殊な空間に入り込む、というのは共通していなくもない気がします。
言葉の音は、念仏であれば、あの世とこの世の境をあいまいにする空間を作るのかもしれません。
感性のままに紡がれた言葉の羅列は、詩となり、空間を作るのかもしれません。また、羅列と言っても、紡がれる言葉同士は手をつないでいるため、その都度、唯一の輪、空間が繰り広げられるのかもしれません。
言葉を自由に踊らせ、輪を作らせ、つまり独自に生きさせる。どんな空間ができるのか、だろうか…。
まだまだよく分かりませんが、念仏と同じで、読めばその空間に入り込んでいるはず、これからもこっそり読ませて頂きます。そうしたら、いつか、この感覚か!と掴める瞬間に出会えるのかもしれません。
@野鳥倶楽部さんへ、とても興味深いコメントでした、言葉は〈誰が発したか〉ではなくして、わたしが〈何を聞くか〉だと思います、すべては〈仏説〉だと感じます、すべては〈神の言葉〉だと言えます、また、〈景色も声〉であると感じます、小さな亀の小さな眼に、神を感じるのです、故にしばらくは手を止めて、我が無意識の散策を、はじめるのです。