壊れた時計
妻の旅立ちを
医師から告げられた男は
車椅子から
身を乗り出して尋ねた
いつ治りますか
己の内にある時計のネジを
彼は時に巻き戻し
時に早めることができる
さっき彼は
自分を八十二歳としていたが
この瞬間は
妻が元気だった七十歳にした
さっき彼は
市内の施設から車で来たが
この瞬間は
会社員だった頃のように
在来線とバスを乗り継ぎ
駆けつけたことにした
老いてまで
辛い目に会いたくはないが
不自由さ情けなさ悲しさ
老いるほどに増して行く
彼は時計のネジを巻き
わずかなりとも苦悩を和らげ
この瞬間を
生きやすくしているのだ
彼は渡された妻の遺影を
車椅子の膝に抱きながら
また時計のネジを操作した
もう誰にもわからない
時計のネジは
巻けているのか
巻き戻せているのか
それとも
巻き過ぎたゼンマイは
とうに切れているのか
それでも彼は
靄のかかる思考の中で
時計のネジをまき続ける
少しでも
少しでも
より良い時間を刻むために
コメント
壊れた時計かも しれませんが、「彼」にとっては、大切な時計ですね。
この詩を拝読して、しんみりと感動しました。
この詩の中では壊れているという認識ですが、似たような時計を自分もいくつか持っていると気付かされました。
彼は使いこなせていて、その様子がひとつの完成系に思えました。
壊れた時計、切ないですね。
介護士やってるのでよくわかる感覚です。認知症の人って、独特の時間感覚を持っていますよね。
@こしごえ
様
叔父をモデルに書きました。
叔父は頭脳明晰だったため、色々分からなくなってくるのは、辛いだろうなと思っていたのですが、叔父の様子を見ていると、そう悲観的でもないような気がしています。
こしごえ様が書いて下さった通り、大切な時計を持っている。
暖かなお言葉、感謝です。
@たちばなまこと
様
年を取ると色々おぼつかなくなってきますが、長く生きている分、生きることに熟練している、だから、時計を使いこなせるのかもしれませんね。
私などはもういい年ですが、生き方という点では、上の世代から見れば、まだまだ頼りない感じなんだろうなあ…、と思います。
@あまね
様
老いて生きるのは、大変なことなのだと思います。私など想像してもいないような不自由さや苦悩がたくさんあるはず。
勘違いや思い込みではなく、ご老人たちは、本当に、自分の中の時間を行き来しているのでしょうね。
大きなのっぽの古時計、じゃないですけど人生は時なり。そして人生は自分以外のかけがいのない存在があって初めて時間をもつのだろうなと思いました。
@王殺し
様
なるほど、そうですね。
時間は正確なようで、あいまいで、関わる人や思い出によって形を変えるものなのかもしれません。
私は時間は直線のイメージだったのですが、頂いたコメントで、直線ではないな、と思い至りました。ありがとうございます。時間のイメージを探っていきたいと思います。