Just the Way You Are

 もう夜の九時を過ぎていたが、金曜日のせい
かあたりは人の姿が絶えない。銀座四丁目の交
差点のところで取引先の人たちと別れ、そのま
ま三越に沿って歩いてみた。お酒がまだ身体を
心地よく満たしている。

 仕事の時とは打って変わったひょうきんな彼
らの表情に、今まで抱いてした緊張感が和らい
でいくようだった。あるいは、そのことを察し
た彼らなりの心遣いであったのかもしれない。
 賑やかな人の流れに身を任せているうち、ピ
アノのことが脳裡にふと浮かんだ。ショーウイ
ンドウに飾られていた、あの、アップライトピ
アノを。
 とたんに浮き足だってきた。
 酔っているせいか、水の底を歩いているよう
な、奇妙な感覚があった。
 パンプスの踵を返す。
 並木通りから、さらに一歩奥のほうへ…。

 先ほどまでの喧騒が嘘のように引いてしまっ
た一角に、見馴れたショーウインドウが現れた。
ピアノは変わらずそこに佇んでいた。
 いつものように、ウインドウに近づこうとし
た時、店の奥からひとりの男がピアノの前にや
って来るのが見えた。慌てて足を止めた。

 男は、しばらくピアノの前に立っていたが、
やがて蓋を開くと、軽い調子で鍵盤を叩き始め
た。ジャズナンバーだ。二十代の終わりくらい
だろうか。長く伸ばした髪を後ろで束ね、作業
服に身を包んでいる。

 テンポの良さにつられ、止まっていた足が再
び動き出した。
 男は、突然の観客に気づき、一度は弾く手を
休めたものの、今度は椅子にどっかと腰を下ろ
し再び鍵盤に向き合った。
 ピアノのことはよくわからなかった。でも、
その腕がかなりのものであることは確信できた。

 一曲弾き終えると、振り向き、どう? という
仕草をしてみせる。
 たわいない悪戯心が湧き上がってきた。気難
しく首を傾げ、それから人差し指を一本男の前
に差し出した。

 もう一曲?

 大きくうなずく。

 しょうがないなぁ、という表情で、もう一度
鍵盤に向かう。二曲目が終わる。今度は精一杯
の拍手を贈る。

 リクエストはない?

 思わず、人差し指を自分の鼻にあてた。

 男は挑発的にうなずいている。

 曲を探しているうち、ひとつの記憶が、まる
で時計の針を逆回ししたみたいに戻ってきた。
無意識に、曲名が口をついて出た。

 …素顔のままで

 え?

 ビリー・ジョエルの。弾ける?

 専門外かな。半ば諦めかけた時、静かなピア
ノの音色がウインドウ越しに流れてきた。指先
に目を奪われた。
 こういう弾き語りで聴くのは、今夜が初めて
かもしれない。この曲が好きだった彼や、当時
自分の周りにいた友人たちの姿が、束の間、懐
かしくよみがえってきた。月に一度くらい集ま
ろうよなんて話していたけど、私自身、今こう
して社会の片隅でもがいている。
 卒業して、まもなく一年。

 曲の途中で、指が止まる。沈黙の後、こちら
に向き直ると、男は申し訳なさそうに宙を仰い
だ。

 ごめん、ここまでしか弾けない。

 微笑みつつ、ゆっくりとかぶりを振った。

  ・・・・・・・・・

*90年代頃を思い出しつつ書いてみました。
まだ、スマホとかのない時代です。

投稿者

東京都

コメント

  1. まるでアメリカ映画のワンシーンのようですね。

  2. 長谷川 忍さまへ
     最初、拝読させて頂いてすぐにBilly Joelの「素顔のままで」を聴きました。そしてもう一度作品を読ませていただきました。
     楽曲の原題がタイトルになっていることにも、登場人物のピアノを弾く男にも。本当にわたくしも映画をみるような気分に浸ることの出来ました。素敵な、作品だと思います。

  3. @たかぼ
    たかぼさん、映画を意識したところはあります。今はそれほど観なくなりましたが、30代、40代の頃は、浴びるように映画を観ていました。当時の映画体験が、現在の私の詩作に、少し役立っているかもしれません。

  4. @リリー
    リリーさん、ビリー・ジョエルの「素顔のままで」は、大好きな曲です。…そうなんです。曲の原題が「Just the Way You Are」。音楽をテーマにして一編書きたいという気持ちがありました。できれば、好きな曲で。

  5. 素敵なショートストーリーです。常々思ってきましたが、長谷川さんの短編小説、読んでみたいなぁ。

  6. この詩も好きです。
    いつも思うことですが、長谷川さんの筆力の高さに憧れています。
    これらの情景はもちろんのこと、この詩の登場人物の気持ちまで見えてくるような気がします。

  7. @あぶくも
    あぶくもさん、詩というより、ショート・ストーリーになってしまいました…。長いものは書けませんが、短い小説は、何編か書いたことがあります。掌編小説のような感じですね。

  8. @こしごえ
    こしごえさん、ありがとうございます。人の、感情の機微は、難しいですね。詩でも、物語でも、苦慮するところです。…人間の妙かもしれません。

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