Individual Phase

Individual Phase

日本・2008年 モノクロ 約60分
監督:化原偉作

 21世紀初頭に始まった映像芸術解体のムーブメントの中にあって、化原ほど賞賛と罵倒と黙殺が拮抗したアーティストも珍しいのではないだろうか。「Individual Phase(個の位相)」、一部のカルト的愛好家からは単にフェイズと呼ばれているこの作品もそういった相克する評価の例外ではない。しかし化原の遺作、パラレル・シード3部作の第2部に位置するとされるこの作品を解説することは、私にとっては、いや正気のまま無難に一生を送りたいと思っている全ての人にとっては、甚だしい倦怠と困難と、そして危険を伴う行為なのである。
 そもそも映画を見るという行為は何なのであろう。映像がスクリーンに映し出される。その画像が網膜に映され、視神経が情報を送り、脳は経験と知識により情報を読み取り、2次元しか知覚できない筈の我々3次元人は、想像力で3次元空間を理解している。
 ではその映像が何であったかを正しく理解しているのは誰であろうか。その理解された映像が唯一の正しい映像であるという証拠はどこにあると言うのだろうか。
 フェイズはまさにそういった事を考えさせられる作品だ。そういった事を考えされられはするが、一体全体その映像とはどんなものなのだろうか。
 フェイズを見るためには決して明かりの漏れない閉じた空間が必要となる。上映中はドアを開けることができないよう鍵が掛けられなければならない。非常灯も完全に消される。観客は身体検査をされ、光を出すアイテムは没収されなければならない。
 映画が始まったことは音で知ることができる。微かな、囁くような音。うめき声のような、あえぎ声のような音。虫たちの足音、蛾の羽音。闇の中で何かが蠢く気配がする。観客はそのような気分の悪い暗黒の空間に放置される。15分ほどが経過する頃に(その時間が正確に何分であるかは不明である。ほんの数分と感じる人もいるし、気が狂うほどの長い時間に感じる人もいるようだ)スクリーンに何かが映り始める。
 それは非常に光量を少なくした映像だ。その手法が、化原と同時代に生きた美術家、ジェームズ・タレルの影響を受けているのは明らかである。光の魔術師と呼ばれたタレルは、網膜が感知できるぎりぎりの光量を持つ空間を創造した。しかし化原はその光量で映画を作ってしまったのだ。
 網膜が苦し紛れに光を集め始め、暗黒の中に突如として光溢れる映像が出現する瞬間は驚異である(だがそれは私の場合であり、あなたには見えないかもしれない)。ストーリーは化原の日常生活を描いたもの(だったような気がする)。化原が自宅のあるマンションに帰ってくる(ような気がする)。しかし彼は決して部屋に辿り着くことができない(かもしれない)。だが遂に彼はある方法で(何だったかな)自宅にたどり着くのだ(たぶん)。
 私がそうであるように、誰もがストーリーや場面の一コマを正確に思い出すことはできないだろう。思い出そうとするとピントがずれていく画像のように記憶が曖昧になる。そのもどかしさに耐えられない人は(お勧めできない方法ではあるが)もう一度ご覧になってはいかがだろうか。私は無謀にも再度鑑賞した。そしてまた再度。それを繰り返すことによって、私は映画の記憶が定着しない理由をおぼろげながら理解したつもりだ。その理由とは、おそらく、信じられないことだが、見るたびに少しだけ映像が変化するからなのだ……。いやむしろ、見るたびに少しだけ私自身の、脳が、変化しているのだ……。自分が変わることで映画が変わる。
 映像の実存とは、結局は脳の中にある。人の数だけ、見る回数だけパラレルの映像が存在するのだ。それがこの作品に秘められた化原からの真のメッセージだ。その事に気付いた私は、苦痛を伴うこのパラレル体験を無限に繰り返し、遂に今、私自身のIndividual Phaseに辿り着いたところである。
 そこは恐ろしい場所である。

註釈:
これは古典映像評論家YY氏の遺稿である。氏はこの原稿を最後に消息を絶った。ただしここで取り上げられている「Individual Phase」なる映像作品の存在は確認されていない(少なくともこの世界では)。

投稿者

愛知県

コメント

  1. 詩の深さは直径1.5m深さ数メートルの井戸よりも
    まとめると5㎜程度の厚さで地球を覆うオゾン層に
    求めるべきなのではと最近はじめたchatGPTの影響か
    考えていましたので、今回挙げてくださったログは
    しろくろつけられないところに詩があるのだと再考
    出来るきっかけになるのかならないのか、何処かに
    その不思議ちゃんがいるのではないかと思いました。

  2. @足立らどみ
    さん。コメントありがとうございます。詩は狭く深くよりも浅く広く、という事ですか。浅くと言ってもオゾン層ですから地球規模ですね。でも井戸もそれに水を頼っている人にとっては生死に関わることもあるのでどちらがより重要かは人によるでしょうね。井戸のような詩というのは個人的なもの、オゾン層のような詩は万人に関わるものかもしれません。興味深いテーマですね。

  3. よだれがでるほど、かっこいい。どの部分を切り出して読んでも。

  4. もちろんこの映像を見た「人間」のひとりとしてこの暗闇から暗闇へと推移するなめらかな平面として知覚するものはつねに始まりは「音」であろうと感じる胎内からのこのふくろの中のわたしに気づく「あなた」はたぶん外の世界が明るいことを知らしめるひとつの「眼」であるだろう診察室の壁にかけられた「塔」は傾いているそして風邪をひいたわたしの影がいっぽんの「刀」を意志するそれはここから出してくれるのですかてらしだされることはこれはあんがい「きりひらかれる」ことなのかも知れないもちろんそれは「影像」からあふれる血なのですが・・・

  5. @たけだたもつ
    さん。勿体無いお言葉ありがとうございました。

  6. @坂本達雄
    さん。確かに子宮という暗闇で私たちが感じたであろう最初の感覚は音でありやがて生まれ出た時に包まれる光へと繋がる過程で流される血。素晴らしいコメントありがとうございました。

  7. こんなコメントで良いのかわからないですが、最もたかぼさんらしい作品、真骨頂を見たなという印象でした。間にジェームズ・タレルを挟むあたりがまたリアルで。化原氏の作品を評論するYY氏の遺稿に註釈するたかぼ氏。いや註釈すらたかぼ氏でない可能性もあるし。何度も読んでいると、YY氏同様フェイズに辿り着いたものは境界を超えてしまいそうでうすら怖くなる。

  8. @あぶくも
    さん。コメントありがとうございます。作品に深く入ってくださり嬉しいのですが、あぶくもさんがこの世界に戻って来れなくなると心配ですw

  9. フェイククリティシズム。完璧な批評だけがあれば、作品が実在する必要はないことを証明してしまっている。自分が何者かを問われないメタバースが空洞化するのは必然だが、だからこそ、身体と同じ強度の批評性が必要とされることも示している。化粧をフェイクと言わずメイクと言うこと。実存には表面しかないことを了承しなければ、ありもしない実体を政治的にでっち上げられるだけだろう。

    高い城の男。たかぼさん、こんにちは。ゼッケンです。架空の作品が物語のコアになるというアイデアは初めて見たわけではないのだけど、この作品で何を初めて見たかと言うと、架空の作品に対する架空の批評を読んでいる読者すらひとつの架空にする多重の入れ子構造。

    >(少なくともこの世界では)。

    最後の丁寧にもカッコ付きの一文。これで作品のメタ構造は読者の存在する世界を巻き込んだ多重メタ構造になっている。作中のパラレルというワードの回収が為されると同時に化原-YY-たかぼの仕組んだ術中に読者がはまる。どこまでも技術的に抜かりのない設計で、これぞフェイクではなくメイク。おっかねー、と思う。

  10. @ゼッケン
    さん。散文詩の名手であられるゼッケンさんから好評価頂き誠にありがたき幸せです。作品を投稿するよりも何倍も困難なコメント投稿をしてくださり、そしてまたこの詩人会におきましてはそのシステム上、作品を投稿するのは自己愛、コメントを投稿するのは他者への愛ある行為と言えますことからも感謝申し上げます。そしてまた、私のこのメタ構造詩に対して、ゼッケンさんらのコメントが加わることでさらに一歩メタが進んだと思われ、やはり詩というものは書かれただけでは詩ではなく、読まれてなんぼだなと再認識されされました。

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