歪み

歪みや乱れについて一人のアパートで観察し続けていると面白いことに気づく。
集団で喋っている時、誰もが一貫した論理を通し続けられることは少ない。
当然一人で自室に篭って一貫した論理を守っている人にとって、その論理は歪みが生じている。
ところが、集団でいる人にとって、独り身でいる人間の頭の中の首尾一貫性に得体の知れない薄気味悪さを感じ、お前の見ているのは全て夢だ。世の中はそんな理想通りにいかないと言い始める。
お互いに持っている歪みが、鏡になって見えているだけ。私だって集団の中にいて、ずっと一貫したことを言い続けられるわけではありません。集団に行くと個が埋没する。
その論理の歪みに耐えられないことは誰にだってあると思う。
一人で部屋にいると、集団で生活している時と違う変な音が聞こえてくる。それは私の父に聞いたら自分もそんな風に聞こえる。それがどうした? と言う。冷蔵庫だったり、洗濯機の電磁波とか、振動音からくる音が旋律のように規則正しく聞こえてくるのだ。
それを一人で抱えてしまった人が病院に入院した話も聞いた。誰かがその時
「私もその音を聞いている。でも大丈夫です」
そう言ってくれると、その人だって一人で抱え込まなくて済んだかも知れない。集団の論理に歪みを感じて、一人で篭ってる人だって、決して共感のない世界を生きたいと思ってるわけじゃない。違和感に気づいて欲しくて発信してる。
「氏ね」
とか、単純な言葉よりずっと良いだろう。共感のない世界が耐えられない。それが意外と平気なのが、群れの中で生きている人なのかも知れないよね。論理がずれていても平気だって言うのは、共感を本当は欲していないと言うことだから、なんでそれが仲良くしているのか本当はわからない。

投稿者

静岡県

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