つぶやく
知っていた世界よりも
今の世はずっとつぶやきに溢れているので
もう詩など意味あるんですか
とも思ったのだけれども
古い屋敷の軒下に
くす玉が釣り下がっていて
それは酒蔵が新酒を仕込み
熟成を祈願し飾るんだそうだ
ただこれはもう朽ち果てていて
家には誰の気配もない
ねえ意味あるんですか
もう朽ちてるんですよ
もうあの芳醇な
そんな香りは生まれないんですよ
つぶやきに埋め尽くされてるんだ
すべてが軽々しくは
ありませんか
ああ、もの言わぬ青
このボロ靴がね
踏み潰してしまったオオイヌノフグリさ
深い青が悲しくって
なぜか今日に限って悲しくてな
あるよね
きっとそういうのあるよね
意味あるんだよね
そうかね
舗装もはがれた草々の道を
あてもなくただ歩く
もう爪痕も消えてただの草さ
なんか見つかるか
誰か見つかるか
せめて骨ひとつ
意味はあろうとも
それは誰の意味なんだろうか
誰にための祈りなんだろうかね
ただの垂れ流しは
やめにしないかね
釣り下がったくす玉は
誰の頭上でも
温く破裂するだろう
そんな日々で
そんな日々で?
熟成するのか
だけども今の世界は
コロナで溢れきっているので
誰ともう一度出会っても
どうせどうせ
知らない顔してすれ違うのだろうさ
だから言わずによいことは
黙ってこうか
どうかな
誰もいないんだぜ
誰も
なんにも動かせない
誰もな
僕らは別れ際にまたねくらい言い合ったかね
普遍的であるならば普遍的で終わるべきだ
そこに個人など見たくもない
これ以上さ
だがそのつぶやきこそが平和なんだろうよ
言わんでいいこと言うなバカ、か
何を嗅ぐのか
目を濁らせて
かび臭いくす玉にこそ
青い叫びの残滓が聴こえる
波にさらわれた芳醇を嗅ぐ
くす玉に
いのる
ああそうだ
つぶやく
世界が閉じますように
コメント
以前たかぼっちと「なぜネット詩は一時的な熱狂に終わったのか」って話になって、やっぱりそれはSNSの隆盛が大きいんじゃないか、って分析したんだけど、つぶやく世界が閉じても詩に意味が付与されるとは思えない。そんな中で、ぽえ会再開以降ずっと詩のことを考えてしまうオレは不健康だよ。でも、こうして王くんの詩をじっくり読めるのは良いことだなあ、と改めてありがたみを感じる。
悲しい青とくす玉が確かに残り、つぶやきなどに対しては裏腹なところも感じました。
詩には含みのある手の込んだお手紙の側面があるというのが子どもの頃からの扱いです。私は、ですけれど。詩やテキストでいつまでもいつまでも惚れたり惚れさせたりしたいなー!って、思っちゃうから一生中二やりますわ。
タイトルを変えてみた。
少し趣きが変わっただろうか。
もとのタイトル「いのり」
つぶやきやSNSはあっという間に淘汰されるに決まってます。王さんがここで問題とされているのは詩ではなく「ネット詩」なのではないかと思うのですが、そうするとネット詩も淘汰されるかもしれません。でも心配いりません。詩にはホメロスの時代からでも3千年の歴史があり今後も人類が生存する限り生き続けて行くでしょう。歴史が保証します。
あー、これはあまねさんがtitleを変えてたのを見て思いつきました。
ちょっとまだまだなので、[編集]を押して一つだけ改行をいれてみます。
ここにあるイラダチのような感情はたしかにほのかに僕に無いとはいえませんが、僕の場合五十歩百歩だとは思っています。
そこまで深刻には思いません。虫の居所のわるいときの八つ当たり程度です。
まず憎まれっ子は世に憚るのが定説なのでつぶやきやSNSが淘汰されることはないのではないかと予想はします。実際、SNSのような誰でもが発信できる世の中が来ると、もはやファインアートや利他的な要素のある読み物というのは優先順が下がってしまうものじゃないでしょうか。
すっかり僕は未来永劫なものは興味が薄れてしまっているようで(この先3000年のことは考えたくもない(笑))
ただ欲求として受け取ってなるほど腑に落ちるとか、純粋に楽しめるとか、気持ちいいとか(読まれてじゃなくて読んで)、時間が(ちょびっとでも)有意義に思えたなとか、そういうものを受け取りたいと思うし、そういうもの(他者になにかがなにかするもの)を考えたいなぁと小さく願うのでした。僕はだらしないので。
たかぼさんにまでありがたい。
最後の最後に改行を入れました。
しまった送信してしまった。
「いのり」時は改行されない感じで「つぶやき」はそのまんまというイメージで書きました。
、の位置みたいなイメージです。ヘタか。わかりづらいか。
やれた、くす玉の存在感、雰囲気っていいなぁ。地球のなれの果てのような。