天鼓

天鼓

雨の皐。観光客と路面店が接近する細い路地をタクシーは器用にすり抜けてゆく。すると民家の間に重厚な門が唐突に出現した。暖簾(のれん)には菖蒲(しょうぶ)。傘を手に駆け寄る番頭。着物姿の若女将が出迎える。広々とした玄関は非日常への入り口だ。目の前に広がる池と能舞台。「お待ちしておりました。さあどうぞこちらに。サロンでお寛ぎください」 初めての来訪なのに行きつけの店に帰ってきたような気持ちになるから不思議だ。

1675年から創業家によって受け継がれてきた宿。600坪の池を囲むように部屋があり、対岸に能舞台、その向こうには原生林が広がる。温泉街の一角にありながら、ひとたび門をくぐると喧噪とは無縁の静謐な別世界が広がる。この完成された幽玄の美は見事というほかない。西洋的美意識と対極にある日本の美。豪華絢爛でなくとも、心地よい品格が一流の証であることを再認識させられる。

夕食は仲居さんが一品ずつ運んでくる。部屋で食べる居心地の良さ。シャンパンや大吟醸とともに頂く。五月ならではの菖蒲をつけた食前酒も振る舞われた。しっとりとした濡れ箸は、御飯が付くのを防ぐとともに木の香りを楽しませてくれる。食事はどれも塩加減が良く、出汁が美味しい。部屋風呂は総檜造りの半露天、源泉掛け流しだ。共有風呂としての野天は藤棚のある池に繋がっている。その野趣が粋だ。

湯上がりにカクテルを飲みながら夜の能舞台を眺めている。ふと、足長の鳥の姿をしたものが微動だにせず直立しているのに気付く。やがてそれはゆっくりと嘴(くちばし)を水に落とした。なるほど川魚を求めてやってきた鷺(さぎ)と思わせて、戯れに能を舞う天狗であったか。 鼓の音がひとつ鳴いた。

投稿者

愛知県

コメント

  1. 風景を想像しながら、読みました。実在する宿ですか?行きたいなぁ・・・。

  2. ほんものを伝える上質な旅行誌かと思えば、詩だった。
    るるぶ、かと思えばたかぼ、だった。

    天狗がおはしそうな山深き温泉宿、雰囲気を堪能した。

  3. 服部剛さん。丁寧に読んでいただきありがとうございました。この詩の題材となった宿は修善寺の「あさば」です。写真はサロンからの風景です。素晴らしい宿ですので機会があれば一度訪れてみてください。

  4. 王殺しさん。「るるぶ、かと思えばたかぼ、だった」ウケる! 旅行記と詩の狭間を意識しながら書いてみました。ユニークかつ琴線に触れるコメントをいつもありがとうございます。

  5. 情緒豊かな趣!そして、最終連で舞う天狗!この詩好きです。

  6. こしごえさん、とても嬉しいコメントありがとうございました!

  7. なんと高貴な…ため息をつきながら読み進みた終わりに天狗。かっこいいです。
    私が同じ宿に泊まれたとしても、こんな上質には書けないです。

  8. たちばなまことさん。過分なお言葉ありがとうございます!

  9. 美しくて読みやすくて趣があるなんて、最高じゃないですか!
    能を舞う天狗と鼓の音。
    なんと情緒豊かな。

  10. あぶくもさん、嬉しい感想ありがとうございます! 励みになります。

  11. 柔らかな、綺麗な日本語表現に魅かれます。最終連の能舞台の描写、叙情的ですね。この描写に「詩」を強く感じました。

  12. 長谷川忍さん、私自身意識して書いたところを評価して頂きありがとうございました!

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