巫女
畳の上に置かれた卓は、肩幅の2倍ぐらいの幅
そこには新聞紙サイズの紙が何枚も置かれている
濃い鉛筆で【記号】を書き連ねていくのは、少女だった
齢17、18の、色素を持たないかぐらいに肌が白く、しかし眼の中に拳を持っているかのような少女
ほとんどの紙は文字と記号に埋められている
だが、紙のほぼ全ては、余白が無くなれば卓から落ち、退場していくだけ
少女は、眼の前の紙の、今まさに生まれていく文字とその集合にしか興味がない
可能性と空隙の無くなった紙には、一顧だにしない
少女が一生懸命に書き出しているのは、英数字と幾つかの記号からなる文字列
ただ、何かしらの「芸術性」は皆無だ
意味のある単語として読める部分はあるものの、三歳児が初めて喋る言葉と同じぐらいに、稚拙で深みの無い「文字」、達
何も知らない人がその光景を見れば、狂人が紙を無駄にしているとしか思えないはずだ
実際のところ彼女が書いているのは、探しているのは、メールアドレス
本物の生きた所有者がいる、メールアドレスの、そのユニークな文字列
やり方はこうだ……
まず少女は5から6文字程度の文字や記号を並べる
その時点で、これが「当たり」か「外れ」かの【気配】を感じられる
その文字列付近に所有者がいれば、温度のような色のようなものを感じることが出来る
あとは、前後に文字を足すか、既に刻まれた文字列を変えるか足すか削るか、延々と作業を続ける
一人の人間に近づいていけば行くだけ、その彼/彼女の近くに寄ることになり、つまりは人となりや性格、今の精神状態といったものが見えてくる
完成すれば、彼女は「メールアドレス」という全く無機質な記号を通して、会ったことも顔も本名も知らない人間の真実の姿を、一方通行で、覗き見をすることが出来るようになる
名前からの「占い」とは全く違う次元で、彼女はメールアドレスから人の本質にアクセス出来るのだ!
果たしてどんな理屈で、「メアド」なんて玩具みたいな、出鱈目な記号が人の魂に紐づいているのかは、彼女には分からなかったが
ただ、これは電話番号ではダメで、必ずメールアドレスか、或いは直接の本人の名である必要があるのだった
それは少女の、数値というものへの親しみの低さには関係していたのかも知れない……
彼女にとっては「数字」は、その他の文字よりも遥かに無味だった
見つけたメールアドレスは、しばらくは彼女の観察対象になる。ただ、満ち足りて幸せなメアドであれば、すぐに捨ててしまう
幸福なものは、退屈だ
むしろ切迫しているもの、危機的な状況にあるものを彼女は探している
例えばお金が欲しくて犯罪に手を染めようかと苦悶している魂を見つければ、「おやめなさい。神様は見ています」などとテキストを、そのメールアドレスに送る
精神的に追い詰められ自殺を企てているような人間に出会えば、「おやめなさい、神様は見ています」と同じように送る
以前にはもう少し具体的なことも書いていたが、今は可能な限りシンプルにしている
自分には他人の人生を語る資格が無いことを、分かっているからだ
……それは、結果として「観察対象」が、電車に飛び込むのを早めてしまったのではないかという、苦い経験もあったからだ
つまり、彼女が送ったメールが「自分は監視されている! 」と思い込んでしまった男の確信を、決定付けてしまったこともあったのだ
ただし結果としては、救った命の方が多い、はずではあった
「どなたでしょうか? あなたのこのメールのお陰で、私は最後の一歩を踏み出す前に思い止まれました…… 」という類の返信も、何通も受け取ってはいたのだ
つまるところ「メアド遊び」と呼んではいるが、それは彼女なりの人助けであり、存在意義だった
しかし必ず彼女は、返信をしない
同じメールアドレスには、メールは一度しか、送らない
送った先からの返信を読みはするが、受けたメールはすぐに消した
それが彼女のルールであり、信じる「公平」だった
……彼女はこの【営み】のなかで、偉大な魂、というのに出会ったことがある。残念なことに、それは全く稀な出来事だ
たまたま出会ったメールアドレスの主は、全くに真っ白で、月並みな表現であるが「輝いて」いたのだ
清々しく、高潔で、濁りの無い心を持ったその人が、宗教者なのか、社会的に名を為した人なのか、まるで分からなかった
俗っぽさが全く無かったので、孤島の灯台守や、或いはただの厭世的な、社会的にはただの引き篭もりであったのかも知れない
いずれにしろ、そんな人間がこの世に存在することは、あかりには希望に思えた
だがしかし、今この瞬間に彼女が引っ掛かっているのは、その真逆の存在だった
真っ暗な、それこそ電灯もないこの僻村の新月の夜を、更に煮詰めたような、だがそれだけでは圧倒的に邪悪の成分が足りていない、魔的な存在だった
あかりの、額だけではなく背中、尻、胸元までが、出た瞬間から氷水のような汗に濡れて浸っている……
文字を並べ直し、付け加えていくと、近づいてくるのは「悪意の塊」としか云えないような人間だった
否! 人間ですらないのかも知れない
まさに【爬虫類】が人間のマスクを付けて生活しているような、そんな違和感すらあった。むしろそうであって欲しいとさえ、思った
つまり、人には本質的に備わっているはずの、善意、良心、或いは「犯罪への躊躇い」に分類されるような良識が、欠片も無い世界なのだ
故に猥雑さも無く、つまりは純粋な「悪」でしかなかった。本人はそれに対して全く疑問すら抱いていない
「人を、何人も、殺している…… 」
あかり自身は、直接に相手の記憶に触れることは出来ない
しかし、蓄積された経験は感情の一部として、微かではあっても何事かの想像が出来た
そしてこのメアドの主は、あくびをするように、仕事に疲れた時に背伸びをするように、人を殺してきている…… その気配があった
それも殺しているのは、一人や二人ではない…… 彼か彼女かがそうするのは、怨恨でも快楽でもなく、ただの事務的な仕事として執り行っているようだった
それによりこの【人間】は、感情的にも金銭的にも、何の報酬も得ていない、らしい
ただ、犠牲者の数を数えているのは、分かった
菜園に植えた種がどれだけ芽吹いたかを楽しむように、そいつは殺した人間の数を、楽しんでいるのだ
「ひどい…… 」
その瞬間だった。相手も窃視している何者かの存在に気づいた気配を、見せたのだ
こんなことは初めだった。絶対安全だったはずの「高みの見物」の櫓の足元に、巨大な斧の一撃を喰らわされたような衝撃を覚えた
同じような力を持っている人間に会うのも初めてで、しかもそれが【極悪人】なのだ
「やめて! 」
あかりは叫び、探し当てたメアドが残っている紙を掴み上げて、声を上げながらビリビリに破り割いた
書かれた文字列が読み取れなくなる程に、探し当てた何者かは少しずつ遠のいていく
「こんなことって、あるの? 」
呼吸を大きく吸って、気持ちを落ち着けながら、独り言ちた
そして自分の眼と記憶からも、あの文字列を消し去ろうとした
5分ほど、彼女はただ数を数えながらの呼吸に意識を向けた
……ようやくに何もない、僻村の夕方の、いつもの部屋に戻った
お互いに行き来する窓も無くなった
直観として、先ほどの相手側からあかりにアクセスする方法は無いはずだった
つまり彼女は住所を持って尋ねたが、相手はそれを玄関の窓越しにちょっと見ただけなので、あかりの寝起きしている場所までは絶対に辿り着かない、そのはずだった
しかし顔は少し見られているから、万が一どこかですれ違ったりでもすれば、気づくことはあるかも知れない
「こんな【人間】が、いるのね…… 」
あかりは呟き、咳き込み、そして髪を撫でた……
終わってしまえば、もう「怖い」とは思わない。むしろ落ち着けば、興味が沸いた。つまり、世界とは「こう」であり、「こうあるべき」なのだ、と
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……当のあかりは、老人二人とだけの生活に、もう十分に飽いていた
彼女は自分の心も身体もまだ十分に若く、そして「よその可能性」があることも知っていた
それでいて、あの老夫婦は、なるべくあかりからその「可能性」を、未知のことに関わるそれを、排除することを自分たちの使命としているのだ
母親であった教祖・ひかりとの、約束として
無菌状態とは、好ましいものなのか? 特に今の自分に?
あかりは中学生だった頃に、「新大陸の先住民は、欧州から意図的に持ち込まれた病気により人口を激減させていた」という下りを歴史書内で見つけていた
図書室の本であったのに思わず二重線を引いて「!」マークまで付けたのは、自身の今と重ね合わせたからだ
その頃は母親のひかりはまだ健在で、しかも娘を外世界に触れさせないように、つまりは中学校ですら満足に行かせないように仕向けていた
あかりはその方針に従ってはいたものの、それは幾つもあった母親への違和感でも、最大のもの、とはなった
【教祖】としての奇抜な振る舞いや、宅に詣でにやって来る信者たちにだって、何も思わずに育ったのに
……「お嬢、御夕飯の準備が出来ましたよ」
この三年間は全く調子が変わらない、老爺の声がした
感情の動きが無いので、石碑に刻まれた文字を見る思いがする
「はい、行きます」
一方であかりの返事は、いつも少しだけ違っていた、彼女は変えていた
何もない田舎、三人きりの生活でも、彼女の感情は動いていたから
それを老夫婦が好ましく思っているのかは、知らない
三人の食事はいつも葬式のように静かに、慎ましく行われる
内容も変わらない…… 庭の畑で取れる野菜、山菜、稀に川魚
買ってくるものはほとんど無い。これはあかりの母親の方針であったよりは、下界との交わりをなるべく絶ちたい老夫婦の暮らし方に依る
「今夜は何か、森の方が騒がしい気がするんです」
突然に老爺が箸を置いて、いつものように目を合わせず、言った
常ならぬことではあったが、年に二度三度はあることで、つまりは樹海に人が入ったのだ
あかりには勿論、「森が騒がしいか」どうかなんて、分からない
或いはこの地で生まれ、魚から鳥から自分たちで獲って暮らしてきた、他の土地を知らないこの老夫婦だからこその、能力なのだろう。
自分のものよりよっぽど「地に足が着いている」力だと、あかりは思う
「そう、また誰か、来たのかしらね。念のため、明日に見回って頂けますか」
あかりは二人の方をはっきり見て、言う
老夫婦とあかりの関係も、歪だ
二人はあかりを僻村に閉じ込めておきながら、あかりはこの二人に対して、先代教祖の言葉に反しない範囲で命令を出来たし、二人は逆らわない
「もし生きている人間を見つけたら、連れてきて下さい。話を聞きましょう」
二人とも箸の動きを止めた。あかりを他の人間に合わせることは、彼らの本意では無かった
自殺志願者でも、死にきれずに森をさ迷うものは少なくなかった。目的を達した骸を見つければ、老爺と老婆は穴を掘り、埋めるだろう
そうでなければ、「教祖」が話を聞き、彼や彼女の思い違いを諭すのだ
これは母親のひかりもやっていたことであり、まだ16のあかりも既に二度、行っていた
……最も、あかりの場合はただ「外の人間と話しをしたい」という、そんな欲求であったし、老夫婦も気付いてはいるのだ
床に着くとき、あかりは「森が騒がしい」話を思い出して、それが生きている若い女として自分の前に座ればよいのに、と思った
孤独な彼女は瞬間にでも話し相手が欲しかった。もし相手が最新のⅰPhoneを持っていれば、それを触ってみたかった
……彼女のそれは、もう5年も前の、母親のお下がりのモデルだった。
そして昼間にメアド越しに出会った恐ろしい相手のことは、全く忘れて眠りについた。彼女は健全に若いのだ
珍しく霧が出た翌朝、食事の前に老爺が来た
「お嬢、昨日のあれを捕まえたのですが、会いますか? 」
「女ですか? 男ですか? 元気ですか? 」
あかりは、二人と話すときにはまるで劇でもやっているように「先代」の真似が出来る自分が、嫌いだった
でもこれが、老夫婦にとっては権威の源であり、求められていることなのだ
「若い男です。ただ、聞いても無いのに良く喋るやつでして…… 」
「会いましょう。連れてきなさい」
自分の失望と不安は悟られないように、努めて朗々と言った。でも興味は、確かにあるのだ
居間に来たのは、痩せぎすで声の高い、二十歳前後の男だった。部屋に入った男は、居るのが自分より若い女だと知って、隠しもせず唖然とした表情を浮かべた
「何か、持っていました? 」
老爺が名刺を差し出した。本人の顔立ちよりも、このふざけた「てきちゃん、です。」と書かれた名刺然とした紙片からの方が遥かに情報が多いのは、いつ考えても不思議だった
「てきちゃん」、メールアドレス、SNSのID…… それらの文字列から、肌でも感じられそうな風圧で、色となり形となり情報があかりに飛び込んでくる
「 ……なんでこんなところまで死にに来たのですか? 」
「いえ、オレ、ユーチューバーでして、自殺の名所特集をやろうとしただけなんですよ」
死にに来たのは、間違いない色をあかりは見ていた。が、このカラ元気は何なのだろう。そして、思ったよりも深刻な色ではない
であれば、戯れに死ににここまで来た、のだろうか。あかりには全く理解出来ない、そんな人種であれば、好きなようにすれば良い
そこまで思うと、もう興味は無くなった。生命として存在として「薄すぎる」のだ
「命は大事にしなさい。送って行ってあげて」
あかりは老爺に言って、立ち上がった。彼女は本気で失望していた。何か少しでも共通のものがある相手なら、もっとお話しは成立したであろうに
「ちょっと待って、あんたの話を聞かせてもらっていいかい? あんたは一体何なの? ちょっと普通じゃない、よ。こんなところで一人で…… 」
あかりはもう一度「名刺」を見た
あなたが今やっていること、学校? 仕事? でも、その、「ユーチューブ? 」ではないようだけど、それに合わないで、でも逃げられないので、苦しんでいるわね
そうでも、苦しみが絡まっているのはまだ「端っこ」だけだから、それが解ければ、死のうなんてきっと思わなくなるわ
本格的にこじらせた人だと、もう自分の喉を締めているぐらいに絡まっているのだけれど、あなたは全然軽傷
そこまで言うと、男はびっくりした顔になり、口が半開きになった
あかりは相手の反応に満足して、部屋を出ていこうとした。所詮自分の力は、ここまでなのだ
「あんたは、何かの教祖様みたいなことを言うな」
「何も知らないで来たの? そうよ、私は教祖よ」
どうしても口調は自嘲的になってしまうが、相手にはどう聞こえているのか
だが、狐みたいな顔の老夫婦にかしずかれた、まだ若い女が教祖を名乗る世界の怖さを、ようやく男は感じたようであった
名刺の上の名を、ようやく冷たい風が吹き抜けていく
帰りなさい。もう死のう、なんて思わないこと。あなたはちょっとした病に心が、侵されていただけ。私と会ったことで、それも解消しました
ここにも、もう来ないこと。次に来たら、本当に恐ろしいことが起こります
自分も何も意識せず、言葉が舌から出てくる怖さ。先代、つまりは母親が乗り移っているのではないかと思うぐらい
「自殺の名所」として知られる古い森の、有名じゃない方の端にある地域なのに、「志願者」はとにかくその地名に惹かれてやってくるのだ
かつては林業地であったので、植林されたがその後に手入れさないままの木々には、梯子無しで首を括れる高さにはほとんど枝が無く、あっても体重を預けるには細過ぎた
たまには成功する者もいた…… それは見つけ次第老夫婦が枝から降ろし、埋めていた
警察には届けない。この村、二人の老人と一人の乙女だけの世界は、下界の介入を好まない
あかりはともかく、母親のひかりは、正真正銘の「教祖」であり、いわゆるお筆先で神様の言葉を人々に伝える能力があった
彼女はそれで人々を癒し、導き、救ってきた。その力で辺境に実質的な・非公式の宗教組織を作り、その最後の信者が今、あかりの世話をしている老夫婦だった
ただし母親であるひかりは、分かりやすい「奇跡」や「超能力」を見ているものの前に起こした訳でもない。ただ人の話を聞き、助言を与え、頻繁に恫喝した
どうしてそれが成功したのか、娘には不思議で仕方ない。母親は単に、心理的に上位に立つのが上手かっただけかも、知れない
ただ、父親を知らない娘の方には、本物の能力があった
紙に書かれた名前を見て、顔色だけからは分からないはずの健康や心配事を当てるあかりに対して、直接相談に来る信者が出始めたのだ
つまり母親の居ない時間を見計らって、「お嬢、私の息子の病気、どうだろう? 」と来るのだ
その時は、母親の助けになると思って名前を聞き、紙に書いて、幸いにも生命は暖色を帯びており、回復傾向にあることを彼女は見、告げた
さすがに馬のカタカナの名前を見せられて、どっちが勝つじゃろう? と問われた時には、困ったが、元気の良さそうな色の名前を答えた
そんな娘の所業を母親が知った瞬間、ひかりは「あなたは自分の能力の使い方を、まだ理解していません! 」と叫んだ
自分のことを「あなた」と言われた時に、あかりは切り捨てられたような眩暈を覚えた。この時から母親は、単純な庇護者、味方ではなくなったのだ
それ以降、あかりはより注意深く隔離されたのだ。彼女は【ニュータイプ】だった
中学校二年生の時に、突然母親は自分の死について語り、そして失踪した。母親の名前からは生の気配がなくなり、死んだことをあかりは知っていた。
母親の最後の言葉
この子をここから出してはいけない。この子はここで、俗世の毒に当てずに、修行するべきなのです。そうすれば、私の教えを彼女はおのずと理解し、広められます
……
あかりの精一杯の反抗は、スマートフォンを手に入れること、だった。「多くの人を助けるために必要」とお目付け役の老夫婦とほとんど喧嘩しながら、ようやく手に入れたのだった
この小さな装置は、しかし彼女にとっては大きな窓となった
同世代の女の子がどんな誘惑にかられるのかも、大人がどう酔っ払って都会の駅でトラブルを起こすのかも知った
外の世界を知れば知るほどに、あかりはこの環境・この部落から早く抜け出したくなった
この僻地で、老人二人だけを相手にして何年もただただ生き、老いていくだけの自分を想像すると、本当にぞっとした
ここを逃れて、人が沢山いる【外界】で何をしようとも、まだ想像は出来なかった
ただ、今のままここにいるだけでは、自分は時間により薄く薄く摩耗していくしかないのは直観していた
そうではなく、もっと人熱にまかれることにより、自分は変わり、成長するべきなのだ!
逃げよう、でも、手段は自分の足しかない。道は一本道で、下界までは10kmはある。老人共に気付かれれば即、車で追ってこられる
10kmは、彼女には途方もなく長い距離に思われた。その道は林道なので身を隠すところはあるが、途中に崖もある
また、仮に歩き切り、街にたどり着いたとして、自分はどうしたら良い? どう暮らしていけばいい?
……「きね子さん、だ」
あかりの乳母役だった女性。どういう理由でか、中学校に入る時分ぐらいで街に戻ってしまっていた
だがきね子であれば、必ず自分を助けてくれるとあかりは思った
あかりは昔の手紙の束を解き、きね子が一度だけ自分に送ってくれた年賀状を見つけた
【検閲】を警戒しつつも「身体と気持ちは、確かに持ってください」と書く彼女の気持ちが、当時はまるで分からなかったが、今となればよく想像が出来た
年賀状にある彼女の自筆の名前からは、まだ元気で、そしてあかりが知っているきね子のままであることが知れた。暖かい色は、変わっていないのだ
ただ、電話番号が分からなかった。今現在もこの住所に居るのかも、確かめようがない。だが、試そうと、思った
老人達は朝が早い。代わりに、夜も早い。夕食後におやすみを言った後で、あかりは最低限の荷物ときね子の年賀状を持ち、旅立った。10km、2時間の一本道。当然に星と月の灯りだけが頼り
林沿いであれば、車が来ても音で気付き、一度は隠れられるかもしれない。が、崖で九十九折りになっている箇所であれば逃げ場が無い
あかりは歩き始めた
気持ちは、焦っている。天気も良くない、雨が降るだろう。傘ではない、くすんだ色のカッパをカバンに入れてある
歩き始めてすぐに分かったが、息が切れる。体力が無い…… 中学校卒業後は、家の周囲しか歩いたことが無い生活だった
中世貴族の令嬢もこうだったかと一度だけ笑い、その後はとにかく足を動かすことに集中した
……この道の先にどんな生活が待っているのだろう。あの忌まわしいメアドの先に見た、【爬虫類みたいな人間】は、実際にはどんな姿をしているのだろうか
つまり、「偏った善意と強固な信念」に囚われている老夫婦以外にも、世界にはもっと沢山、人や【そうでないもの】、がいるはずだった
しかし残り2kmぐらいの地点で疲れ切り、あかりは座り込んでしまった
こんなところで、、、こんなところで!
見つかったら、もうしばらくは脱出のチャンスはないはずだ
老夫婦があかりに危害を加えることはないだろうが、しかし冷たい監視はもっと強くなるはずだった
夜の9時過ぎ、見知った車が来て、止まる
「どこに行くんじゃ」とても緊張した声。自分だけではなく、相手も緊張しているのだと分かって、あかりも少しホッとする
「私、ここを出たいの。人がたくさんいる世界に、行きたいの。スマホ越しではなくて」
蒼白な顔のまま、車内でお互いに見返した老夫婦が、ふっと溜息をついた
老爺が扉を開け、車から出てくる。そして手を差し伸ばす
「そういう時期が来たのでしょう。実は、先代からは言われていました。あの人は、何でもお見通しなんですよ。二十歳にはまだ少し遠いですが」
「あなたも力をお持ちですが、でも今はまだ、【あの方】の方が、大きいのでした」
老婆も頷き、言った
「何を持ってきたの? 服だけじゃないのかい? きね子さんのところに行くつもりだったのでしょう? 」
こうしてあかりは車に乗って、捨ててきたはずの過疎集落に引き返し、そしてもう一夜だけをそこで過ごした
全く予想もしなかった成り行きであり、何故かあかりは泣いて詫び、老夫婦が「もともと決まっていた、道ですから」と慰めることとなった
床の中でもあかりは泣き、やっぱりここに留まろうかとさえ、思った
しかし翌朝には、ほとんど眠れていなくても、あかりは昨日よりはだいぶ多い荷物を持ち、我が家の戸の前に立った。
表情の無かったはずの老夫婦であっても、老婆は眼を落とし、老爺の方は余計に緊張した面持ちだった
「行きましょう」
10kmなんて、車だとあっという間だった。駅に着くと、三人は全く無言で、車で降りた
……人の流れ、車、山にはない匂い、騒音、雑多な感情、街の塵芥、そんなものが一気に少女を襲ってきて、あかりは怯み、眩暈がした
自分がこれから戦わなければならないものは、彼女の外側の全部なのだ
しかし「さあ、行ってらっしゃい」という老婆の言葉に背を押されて、あかりは電車の切符売り場の方に向かって歩き始めた
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