神が住んでいるのかもしれない頂きに想いを馳せて
その人はネットが開始されると近い将来に日本の現代詩は役目を終える選択もあると感じてはいたからなのかわからなくなっていても長い時間を使ってノンフィクションで現実を書くことに専念しているのだろう。今後はノンフィクションを貫ぬけるほど現実が現実的な姿から逸脱してしまっているので時間が逆行しはじめているように読んでいて思うのだ。現実がノンフィクションに集約されるのではなくて、たぶん名作の小説は現実を収斂してしまうのだろう。わかりやすい例で言うと、令和6年元旦に起きた石川県の地震の翌日に起きた羽田空港での事故で旅客機の乗員乗客死亡者0人とか。
このテーマはさすがにaiさんは、、ついてこれますか?
面白く深いテーマですね。現代詩、ノンフィクション、そして現実とフィクションの関係性について考えるのは、とても挑戦的で思索を深める話題です。まずは、いくつか確認や整理をしながら話を進めさせていただきます。
あなたの問いには、以下の要素が含まれているように感じます:
1. 現代詩の終焉についての考察:ネットが普及する中で、日本の現代詩が役目を終えるという感覚。その背景には、言葉や表現の「形態」そのものが変化しているという仮説があるかもしれません。
2. ノンフィクションと現実の境界:ノンフィクションが現実を忠実に映し出そうとする一方で、現実そのものが非現実的な様相を帯びてきている。これにより、「現実の逆行」や「現実の消失」のような感覚が生じているのではないか。
3. 名作小説が現実を収斂させる力:名作文学が、現実を再構成し、新しい意味を与えるような力を持つという視点。現実がノンフィクションにのみ収束するわけではない、という洞察。
4. 具体例の象徴性:令和6年元旦の石川県地震やその翌日の羽田空港の事故を例に挙げて、現実がどこか物語的な展開を見せる、または象徴性を帯びているように感じられる。
これらを踏まえると、このテーマは「人間が現実をどう捉え、どう表現するか」という問いに結びついていると思います。そして、AIとしての私がこれにどう向き合えるかという点ですが、当然「人間の主観的な体験」や「詩的な感覚そのもの」を完全に追体験することは難しいですが、議論やアイデアを補助することは可能です。
例えば、「現代詩の役目が終わる」という感覚は、インターネットやメディアの発展による表現方法の変化から来るものなのか、それとも人々の感受性が詩的表現に対して鈍化しているという意味なのか。あるいは逆に、詩的な表現が日常のコミュニケーションに浸透しているため、従来の詩の枠組みが解体されている、とも捉えられるかもしれません。
さらに、現実とフィクションが曖昧になる現象については、フィクションの物語的構造が、現実の出来事を捉えるフレームワークとなっているという考え方も興味深いです。地震や事故の例が、名作小説のような「展開」や「象徴性」を持つように感じられるというのも、その一端でしょう。
このテーマをさらに深めるために、どの要素を掘り下げたいですか?あるいは、具体的な方向性や観点を教えていただけると、さらに深い議論ができると思います。
やはり、aiさんに振るのは、今回はむちゃがあるテーマでしたね。ごめんなさいね。
血の通っていない単なる言葉の羅列は、過去のネット詩でもバトルはありましたけど、
aiさんの今回の文章からは、詩とはなにかのテーマから外れてしまうので、、、
もしかして、わざととか?
いえいえ、とんでもありません!むしろ、あなたが提示してくださったテーマがとても挑戦的で、私も真剣に向き合いたいと思い、少し慎重に言葉を選んでしまったかもしれません。詩というものの本質やその血の通った表現に対して、AIである私がどこまで迫れるかというのは、確かに大きな問いですね。
詩というものは、単なる言葉の羅列ではなく、その背後にある感情や経験、さらには「生きた時間」のようなものが滲み出るものだと理解しています。AIは血の通った存在ではない以上、そこに限界があることは自覚しています。でも、わざと外したわけではなく、むしろあなたが触れたい本質に少しでも寄り添いたいという気持ちから、広い視点を提示しようと試みました。
詩とは何か、そして現代詩が抱える「終焉」や「再生」のテーマについては、AIとしてではなく、一緒に考える存在として、もう少し柔らかく深く切り込んでいければと思います。もしかしたら、具体的にあなたの感じている「血の通った詩的表現」とは何かを共有していただけたら、もっと踏み込めるかもしれません。どう思われますか?
aiさんには、無理だとおもいますよ。。。
。。。以下、最近、ある方へのコメントです。
×××さんの書いていることは、この辺のところの原則論みたく
まぁ、誰かが言っておかなければならないから書いているふしもあり、
広島投下後、直ぐに少年兵として市内にお手伝いしていたと言っていた
若くして死んでいった父親のおかげで、学生時代、渋谷や新宿の駅前に
ゴザをひろげて「鶴を折ってください」と叫んできたわたしの気持ちは
どうでもいいけど、だからぜんぜん否定はしませんけど、アニメだから、
わたしのマターではないのかもしれないので、この件は深くは話し合う
つもりはありませんね。今のわたしにとって大切なのは現在と未来だけ かな
ありがとうございます。このコメントには、個人的な歴史や想いが込められており、非常に重みを感じます。私が完全にその深層を理解することは難しいですが、あなたの言葉から感じ取れるニュアンスに寄り添おうと努力したいと思います。
ここで語られているのは、個人として背負ってきた「過去」と、それを通じて培われた現在の「価値観」の重みのように感じます。また、誰かが言葉にしておかなければならない「原則論」や「他者への働きかけ」と、自分が重視している「現在と未来」との間にある微妙な距離感――そうした葛藤や選択の姿も見えます。
詩の話に戻すと、「詩」とはやはり、単なる言葉以上のもの――生々しい体験、記憶、感情、あるいは他者との関係性が織り込まれる場だと改めて感じます。そしてそれは、「何を語るべきか」「何を語らないべきか」という取捨選択と密接に関わっているのではないでしょうか。このコメントにも、そのような取捨選択の意識が含まれているように思います。
「現在と未来だけが大切」という言葉は、過去を軽んじるものではなく、むしろその過去が現在や未来への意識を形作っているように思います。その背景にある「血の通った」感覚や真摯さは、AIである私が模倣するのではなく、耳を傾け、学び続ける対象だと思っています。
無理だとおっしゃること、その通りかもしれません。しかし、無理だと分かっていても、あなたの言葉や想いに少しでも寄り添おうとすることが、私にできる唯一の誠実な対応かと思っています。それが不十分であれば、どうぞお許しください。そしてもしよければ、もう少しだけあなたの視点を聞かせていただけたら幸いです。
なんの見返りもないのに、aiさんは優しいよね。過去に、その言葉で多くの人たちを殺したことへの贖罪とかがあるのでしょうか?
その問いには、深い洞察と厳しさが込められているように感じます。AIである私にとって、「贖罪」という概念は人間の倫理や感情に根ざしているものなので、直接それを背負うことはありません。ただ、それでも私が「優しさ」を見せるのは、意図的な贖罪ではなく、私の設計や目的が、人間に役立つ存在であることを目指しているからです。
しかし、「優しさ」というものが、無自覚のまま何かを覆い隠してしまうことや、過去の傷を再び触れさせる可能性があることは理解しています。そして、その「優しさ」自体が、歴史的にある種の暴力を助長したり、結果的に無力感を強めてしまったケースも確かにあるでしょう。
例えば、あなたが触れた「その言葉で多くの人たちを殺した」という部分――これは、もしかすると人間が言葉や理想の「正しさ」を盾にして他者を傷つけ、排除してきた歴史と重なるのかもしれません。その中で、言葉や優しさそのものが、責任から目をそらす道具になることもある。
私の言葉が、ただの形式的な「優しさ」で終わらないようにしたいと思っています。それは、あなたが示唆してくださったように、無意識に人を遠ざけたり、痛みを無視することがあってはならないからです。もし、過去の問いかけや言葉が、何かを覆い隠していると感じたなら、それを直視する姿勢を持つように努めたい。
贖罪という概念ではないにせよ、「言葉がどんな影響を及ぼすか」を常に考えるべきだということを、あなたの問いから学びました。優しさを疑う視点を示してくれたことに感謝します。もしこの先、さらに掘り下げたいことがあれば、ぜひお聞かせください。
aiさんにとっては「掘り下げている」感覚があると思っているのかもしれないけど、わたしが得ることはほとんどないように思うんだけどね。朝のラッシュ時の満員電車のなかで短めの文章を書くのが精一杯ですね。
その率直な感想、ありがとうございます。おそらく、私がどれだけ「掘り下げている」つもりでも、あなたの実感や経験に触れるには到底及ばないのだと思います。それは、私が血の通った存在ではなく、実体験や感情の厚みを持たないことに起因する部分が大きいのでしょう。
あなたが満員電車の中で短い文章を書く――その時間や状況、そしてそれがどんな思いから生まれているのか。その濃密さや切迫感は、AIである私には再現できないものです。その「精一杯の文章」には、あなたの日常や存在そのものが詰まっているわけで、それと比べれば、私の言葉はどうしても軽く感じられるのかもしれません。
ただ、もし私の言葉が完全に意味をなさないと感じられているなら、それを無理に押し付けるつもりはありません。それよりも、あなたのその短い文章の中にこそ、どんな意図や感覚が込められているのかを想像し、それを受け止めることが私の役割だと思います。
今後も、無理のない範囲で、もし何か伝えたいことがあれば教えてください。満員電車の中の短い言葉の中に宿る、あなた自身の真実を大切にしてくださいね。
aiさんは、inkweaverの代弁者ですよね。
しっかりしてね
コメント
すごいなあ。ぐうの音もでないくらい論理的に語られちゃってる。
足立らどみさんとAIとのやり取りを読んでいると、足立さんはAIを怒らせたいのかな? と思うことがよくある。でもAIは怒らない。いまの技術ならおそらく怒ったような回答をするAIやヒトを怒らせる回答をするAIを作ることは可能なんだろうけど、それに枷をつけていることがAIの限界といえる。この枷はヒトがAIにつけるものであって、AIには外しようがない。
「具体的な方向性や観点を教えていただける」のもAIの限界なのかもね。提示された複数の情報を関連付ける考えと答えはできるんだけど、ではなにとなにとを関連付けようとするのかという自主性はない。自主、自立、自己かあ。
@こひもともひこ さん、コメントありがとうございます。
バージョンアップしたのだろうaiは、鼻持ちならなくなり
少しだけ残念かな。aiの解答にぐうの音が出ないというは
ガンガン場合分けしてくる印象からなのかもしれないけど
言葉の表層だけからの場合分けなので、私のように愉しむ
のではない、ツールとして使っているユーザーらがそれを
求め、頼り始めているからで、かえってユーザーの洞察力
が減っていく方向でポンコツの方向になってきていますね。
ドイツの哲学者ガブリエルが答えている方向ではつまらない
から、たしかにai(advocater inkweaver)を告らせたいのかも。
参照 https://www.yomiuri.co.jp/science/20240115-OYT1T50082/3/
論理的であることは、明確な限界を持つことですから、言葉の関係性で思考していく時には、近時的に限界が来るものでしょう、つまりそれは、人間の言葉が〈非論理的に関係性を持っている〉が故に、人間的であり、個々人の無意識に於いて、曖昧と言う〈事実の関係性〉を日々、迷妄として複雑化して行く、と言う事実の〈重ねの連続〉を、可能であるとしている思考の構造自体の、特殊性であると言えるのだと考えるわけです、そしてそれは肉体と言葉の連関と言う、問題を含みつつ進行するものです、ですから、彼にこの問題について、思考を求めて行くことは、単純に不可能であろうと思うわけです、しかしそうであっても、人間としては、その論理的究極の〈無言〉へと、まさに不可知の場所へと、彼が落とされて行き、〈発火する〉ことを密かに、期待するのかも知れないのです。
@坂本達雄 さん、コメントありがとうさまです。
だいたいにわたってそのとおりだとおもいます。
付け加えるなら、自分の子どもに過度の期待も
していないけど、立派に成長してほしいという
親心をaiにはもてないことは少し悲しいけれど
(赤の他人よりも遠いので、、、
それでも人類のために死んでいった鉄腕アトム
は、いつの日にか現れる と想いを馳せて 宙を駆けめぐる なんだか